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発熱3日目 [日記]

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今日もお休み。
昨晩も沢山汗をかいて、シャツを3枚代えました。
半袖シャツの在庫がなくって、最後ランニングで代用したくらい。
まぁ、奥から取り出すのが面倒だったからだけど。

今朝はまぁ落ち着いていたので、朝に葛根湯を飲んだだけで後のやつは一旦服薬を中断。
何しろコデインは薬だと言っても阿片化合物ですからね。
咳止めとは言え、そんなに酷い咳が出ている訳でもなく、かなり平熱に近くなって平熱前後を上下するようになったので、カロナールもそんなに必要とする状態ではない。
葛根湯も発汗を促すので、これ以上体温を下げると逆に影響が出そうだったのでこれも朝だけにして一日過ごしました。

夕方前後に再び微熱に近くなってきたのですが、まだ留まっています。
それにしても小便が普通の色を通り越してかなり濃い色になっていたのにはびびった。
胆嚢を取っているので、その影響かしらん、と、慌ててググったら、水分不足だと言う事が判って一安心です。
そりゃ、昨晩、シャツを3枚変えるくらい発汗していたら、身体の中には殆ど水分が残っていないでしょうから、言うても数口くらいのジュースとかスポーツドリンクやらで補充したとしても糠に釘です。
本来は薬局に出掛けてOS-1くらい買ってくるのが一番良いのでしょうが、まだ外に出るのが億劫なので、2リットルのペットボトルの非常用水を冷蔵庫から取り出して飲むことにしました。

まぁ、ここ数日は余り食べる事が出来ていないので、これで体重が減っていれば良いのですが…。
何せ、先週医者に行って体重を測ったら殆ど安定の数字だったのでねぇ。

それにしても、どうしてこうなったか…。
先々週はこちとらが喉をやられたのに、丁度休みで医者に行かなかったので悪化したのが原因でした。
その風邪が親に移ったので、再び移されたのかと思ったのですが、それにしても風邪のタイプが異なります。
前回は喉の風邪、謂わば扁桃腺炎だったのに、今回は急な熱発です。
しかも、全く徴候がなかったですからねぇ。

もしかして、風邪をひいて治りきらないうちに肝臓に負担が掛かって肝炎か何かを起こしたのかと思ったのですが、月曜の血液検査では否定されましたし、レントゲンの結果肺に影もないので肺炎も否定されました。
色々考えていてふと思い当たったのは金曜日に徹夜する前にリハビリに行った訳ですが、そのリハビリの医者で、隣でマスクも付けずにゴホゴホ咳き込んでいたおばちゃんがいた事。
前回の私と同じ薬を処方されていたので恐らく風邪で、その撒き散らされた黴菌がこちとらに入って、徹夜で疲れた身体を直撃した可能性が大です。

最近、風邪が流行っているようですから、医者でも気をつけないと駄目ですね。
あ、マスクの買い置きもなくなったから、そろそろ買わねば…。
一応、本復までに4日と言われているので、明日も1日様子を見ようかと思います。
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謎の高熱 [日記]

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昨日、どうも身体が重いなぁと思って家を出たら、途中でどうにもならなくなって何時もの医者に駆け込む。
よくよく考えたら、途中で引き返して家の近くの葛根湯医に駆け込めば良かったと思ったのは後からの話。

医者で体温を測ったら39度!
そりゃ、身体も重いはずだし、何をするにも億劫になる訳です。
先月の血液検査の結果、肝臓の数値が余り良くなかったので、肝臓から来るものかと思ったのですが、血液検査の結果、肝臓に起因するものでも無く、しかし、白血球が異常数値でもなかったのでかなり謎な発熱です。

インフルエンザを疑われたのですが、簡易検査の結果、インフルエンザは陰性でした。

薬を処方して貰ったのですが、最近の医者は抗生物質を出さない様にしているのですね。
毎度おなじみ葛根湯とコデインとカロナールを処方して貰い、這々の体で帰ってきて寝床に入ったのですが、暑くて何度も目が覚め、シャツは何回も代えるくらい汗でボトボトになりました。

で、早朝に起きて恐る恐る体温を測ってみたら36.7度。
ずっと午前中寝ていたのですが、ほぼ平熱になり、一体あの高熱は何だったのか…。
ただ、これが薬の効果だったら嫌なのですが…薬が切れてまた高熱になったら叶わん。

どうも今月後半はこんな感じで体調が良くないです。
そもそも、最初のが風邪だったのかどうかがよく判らないだけに。
これが続くと不安になりますね。
果して明日は元に戻っているでしょうか。
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滞在時間30分 [日記]

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昨日、18時にトラブルが発生したとの連絡があって、21時から詰めるべく、慌てて御飯を食べて出撃。
少しでも時間を詰めようと、丁度やって来たバスに乗って赤羽駅に出掛けたのですが、途中まで順調に来ていたのに、坂口で20人ほどの団体さんが乗ってきて1回の信号で乗り切れず、ここで5分ロス。
これが響いて、上野・東京ラインに乗れず結果、京浜東北線にチンタラ乗った御陰で21時過ぎに到着。

ところが行ったら、既にトラブルは収束していたことが判って、話を聞いて結局とんぼ返り。
滞在時間30分ちょいで会社を出て、再びおうちに帰りました。
結局、2時間無駄にした感じです。

流石に今朝は早めに起きて翌日作業の確認が終わるのを待っていたので、ちょっと寝不足。
今日は早めに寝ないと、明日になるとまた疲れが出て来そうな…。

と言う事で、今日も短めのブログで失礼します。
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急遽出撃 [日記]

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予定では今日は何も無いつもりだったのに、急遽出撃せざるを得ないことに。
今日中に帰って来られれば良いなぁ。
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生活パターンが乱れておる [日記]

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先週風邪をひいてからの病み上がりで、深夜勤務なんぞした御陰で完全に体調を崩しました。
そして、今日も今日とて徹夜して翌日9時上がり、それから帰ってから寝て、再び20時に出勤して深夜1時に終わって、ホテルに泊ろうと思ったのですが、流石に高かったのでタクシーで帰る、と。
日曜9時半出社で午前中仕事して帰る事になる、と。

こんな状態で、また月曜から仕事をしていたら完全に体調を崩すのは火を見るより明らかです。
一応、火曜日に窓の修理に来るので、その日は休みですが…。

2週間ごとにこうした生活が続くので何だかなぁ、と思ってみたり。
果して、11月を乗り切ることが出来るのか、ちょっとした試練です。

余計な仕事さえ入らなければ、今年はここまでドタバタする必要は無いのですがねぇ。
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再びグロッキー [日記]

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流石に毎日ドタバタしていたら疲れマックス。
今日はとうとうぶっ倒れました。
17時間近く、朝ご飯も昼ご飯も食べずにひたすら睡眠。
途中、1回電話が掛かってきましたが適当に話をして切り上げ、何を話したかも覚えていない。

明日は晩から出て、土曜日の朝まで仕事、一旦帰って、夜に再び出勤して日曜の昼まで仕事です。
恐らく、来週も過労状態なのは変わりないだろうな、と。
人手不足なのに、仕事だけはどんどん増えて兼務が2人増えても全く変わりなし。

てな訳で、今日明日明後日は恐らく適当なブログになると思われ。
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農民の翼 [飛行機]

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流石に日曜に深夜勤務して、翌日朝8時前から12時間近くの勤務を繰返すと、先週の風邪からの病み上がりも相俟って中々本復していません。
毎日朝早くに起きて会社に行くのも一苦労で、今日は遂に目覚ましが鳴っても全然気付かずに白河夜船でした。

てな訳で、今日は農業機の話。

最近、日本も農地の集積をして効率化経営を行うと言う話が出たりしていますが、国土の広い豪州やロシア、それに米国やカナダと言った国々では、それよりも桁が違う広さの農業経営が行われています。
そうした国々ではちまちま種まきやら病虫害駆除やらをする事が出来ません。

そこで活躍するのが飛行機です。
飛行機なら広い農地の隅々にまで農薬を散布出来ますし、種子をばらまくのも可能です。
米国ではこうした用途に、軍から払い下げられた練習機や軽飛行機クラスの小型機が用いられていました。
例えば、パイパースーパーカブなどは、便乗席を潰してそこにタンクを設置し、農薬や種子を入れて空中から散布する改造が行われました。

しかしながら、キャビンにタンクを設置した場合、揮発性の溶液ならキャビンにガスが充満し、下手をすれば中毒を起こす危険性があります。
また、後部座席を潰してタンクを取り付けたら、重心が後ろに寄ってしまい、操縦性が悪くなる危険性があります。
特に農業機は超低空を飛行することが多いので、不意に現れる電柱や電線を素早く避けねばならない事も有ります。
さらに武人の蛮用的に、こうした農民達は機体のマニュアルを読む人は余りいません。
ペイロードを満載にした場合、ともすれば既存の機体ではアンダーパワー気味になって性能がガタ落ちになります。

そうしてみると、既存の軽飛行機を農業機として用いるのはかなり難しい事が判ります。

ソ連の場合は、農工省の肝煎でAntonov設計局がSch-1を開発します。
これが後のAn-2で、旧式な複葉機ですが、不整地からの離着陸が可能な頑丈な構造と、14名の乗客を収容出来る大きな胴体、強力な1,000馬力エンジンと相俟ってかなりの成功を収めました。

ソ連では、輸送力を加味した機体が農業機として用いられた訳ですが、米国では軽飛行機のメーカー各社が農業専用機を開発しました。
ただ、実際には農業機ですから、農民の所得に見合った機体でなければいけません。
そこで、コストを下げるために各社が行ったのは、1つの道は既に開発が済んでいる機体を会社ごと買収して自社ブランドで販売するもの、もう1つは、自社開発の場合でもなるべく自社製品のコンポーネントを用いて新規開発部分を少なくすると言うものでした。

前者の代表的なものはAero Commander社で、Snow社を買収してこの会社が生産していたS2をSnow Commanderと銘打って販売したものになります。
この機体は600馬力のピストンエンジンを搭載した低翼単葉の単発機で、1,200kgの搭載能力を有しています。
これは、Rockwellに買収されてからも引き続き生産され、デタントの時代には当時未だ共産圏だったポーランドに製作権が売られて、PZL社で生産されたりもしていました。

Beach社にはこうした農業機のラインナップはなく、Cessna社はAG Wagonと呼ばれる機体を開発しました。
と言っても、これも新規開発部分は中央胴体部と翼のみで、胴体後半部と尾翼はCessna180をその侭流用したもの、機首回りも既存の機体の流用です。
中央胴体部には重心位置に大きな薬剤タンクと散布装置を持ち、主翼に大きな圧縮ストラットを備えています。
Cessnaと言えば、高翼単葉の機体が代名詞ですが、主翼は低翼単葉です。

胴体中央部には突出した密閉式の操縦席を持っていますが、これは薬剤タンクの後に置かれています。
これは乗員の安全を考えると共に、広い視界を確保する必要があるためです。
散布する薬剤は、主翼の吹き下ろしを利用して散布する薬剤を広く葉の裏にまで行き渡らせる必要があります。
この為、圧縮ストラットと簡単なフラップを装備しています。

因みに、こうした農業機の前部胴体構造には鋼管溶接フレームが採用されていますが、これも乗員の安全を考慮しての対策です。

Piper社もCessnaと同じ型式で農業機PA25 Pawneeを開発しました。
こちらは、ベストセラー軽飛行機であるPA18 Super Cubの高翼単葉の主翼を流用して、低翼単葉に装着し、支柱を
取り付けるというもの。
これにより、AG Wagon同様に視界の点とグランド・エフェクトによる散布効果の有利さを兼ね備えるようになりました。
また超低空で飛行するため、地上の障害物と衝突した時に備え、ワイヤーカッターや強力なシートベルト、転覆時の乗員保護装置など幾重にも配しています。
これも薬剤タンクは重心位置に搭載しています。

こうした農業機の基本形を創り出したのは、実は軽飛行機とは縁もゆかりも無い会社です。
戦時中この会社は艦載戦闘機を開発し、戦後も一貫してほぼ海軍戦闘機を開発していました。
丁度、朝鮮戦争の終結による軍縮ムードが出た時に、民生用として目を付けたのが、農業機の分野。
Grummanが1957年に開発した社内呼称G.164 Grasshopper、後のAg-Catがその機体です。

機首に星形ピストンエンジンを剥き出しに装備した単発機で、1950年代にしてはかなり時代遅れの複葉機です。
複葉を採用したのは、最小限の寸法で最大限の翼面積を実現する為で、Grumman鉄工所と呼ばれた機体らしく、上下の翼は全く同じ部品で、逆に取り付けることも出来ます。
複葉なので張線や支柱が必要ですが、こちらは最小限に留めています。

胴体は他の農業機同様に鋼管骨組で、外皮の金属板は総てがビス留めされ、簡単に外板を外してあらゆる部分を点検出来る様に配慮されています。
勿論、重心位置に薬剤タンクが設置されています。
座席は他の機体と同様にタンク後方にあり、開放式ですが、大きくて頑丈な背当てが付いていて転倒時の安全に配慮していると共に、上翼がそれを補完してくれます。
なお、塗装については薬品や退色に強いコロジオン系のものが初期には用いられていました。

因みに、農業機独特の飛行では、乗員は操縦席の計器を読む暇が無いと言う市場調査結果から、速度計と回転計は座席前方の胴体正面に取り付けられており、操縦中の乗員の視線に自然に入る様に作られています。

また、エンジンについては米国で最も普及している数種の200〜300馬力級エンジンの中から、オーナーが希望するものが選べる仕様です。

この機体はGrummanから生産委託されたSchweiserが一貫して生産しており、1981年にはこの会社が販売権も獲得しましたが、2001年にアーカンソー州のAllide Ag-Cat社に製造販売権が移されました。
流石に現在では生産されていませんが、この機体自体は、2,700機以上が生産された隠れたロングセラー機となっています。
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空飛ぶハコフグ [飛行機]

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2週連続で今週末も徹夜決定でゲンナリしています。
昼間、泊るホテルがあればそのまま滞在して夜から再び出掛けると言う手があるのですが、泊まりは御足が掛かるし、かと言って、行って帰ってでは結構時間が無駄になるしでちょっと痛し痒しです。

さて、昨日はTwin Otterの話を書きましたが、今日はShort S.C.7 Skybanについて書いてみる。
この機体も、日本では海上保安庁が用いていました。
高翼単葉で、文字通り矩形断面の胴体を持ち、後部にランプ兼用の貨物扉が付いていて、大抵のものをそのまま載せることが出来ます。
当然のことながら与圧は無く、低い高度をゆっくりと飛ぶ機体です。

この機体、こうしたゲテモノ形状なので、英国面が出たものかと思いきや、その構想自体はフランスが発祥です。
まぁ、大戦間のフランス機や戦後のフランス機も相当なゲテモノ揃いなものが出ていましたが、Maurice Hurelと言う人物の頭の中から飛び出した構想が始まり。

彼の構想では、長大な主翼を持つ機体であれば、空力特性は良くなり、長い主翼は大きな揚力を生み出し、小さな機体でも大きな輸送力を持てるのでは無いかと思った訳で。

そして、航空機産業への進出を目論んでいたLeon Duboisと言う人と組んで、Hurel-Dubois HD.10と言う高翼単葉双尾翼で単発のデモンストレーターHD.10を1948年に初飛行させました。

幸い、このデモンストレーターはフランス政府の興味を引く事に成功し、HurelはHD.10を発展させ、双発にして胴体なども大型化した機体を開発します。
この機体は、アスペクト比20:1と言うグライダー並みの長さを持つ主翼を高翼型式に装備しており、その主翼は支持柱で頑丈な足回りと直結されていました。
勿論、引込脚では無く頑丈一点張りの固定脚です。

1953年1月、ライト・サイクロンエンジンを装備したHD.31が完成し初飛行に成功すると、翌年にはP&Wツイン・ワスプエンジンを装備し、発展型のHD.32を2機製作します。
この機体からは単尾翼となりましたが、安定性が不足したのか、水平尾翼に安定板が追加されました。
これらはフランス空軍に採用されて、折しも民族自決の炎が急速に燃え上がっていたアルジェリア紛争に投入されました。
また、Air Franceでも試験採用されています。

HD.32シリーズは最終的に24機が生産され、海軍向けにHD.35が3機、エンジンを換装したHD.34が8機、更に1957年には国土地理院向けに機首を透明化し、レーダーや写真測量装置、赤外線スキャナー、磁気観測装置などを装備した特殊型のHD.34が1機引き渡されました。

因みに、特殊型のHD.34は1985年までフランス本土はもとより、アフリカの旧フランス植民地諸国、中東まで足を延ばして活躍していました。

これに目を付けたのが、英国のMiles社です。
当時、Milesは青息吐息でヒット商品を探していました。
そこに持ち込まれたのが、Hurelの企画。
1957年、Milesは、Hurel-Duboisと共同で、当時Hurel-Duboisが試作していたHDM105軽輸送機を発展させ、より量産向きに改造したHDM106 Caravanを生産する予定でした。

ところが、Miles社の破綻によりその共同開発は宙に浮き、1958年、ShortがMiles社の機体の製作権を譲受けた為、宙に浮いていたHDM106も日の目を見る事になりました。

この機体は、エレガントだったHD.34とは似ても似つかぬもので、矩形断面、と言うか殆ど四角い箱に矩形翼を半片持式に取り付けた機体で、重量1.5トン以下の貨物であればどんなものでも搭載可能、しかも床面は地上から僅か0.61mの高さなので容易に貨物の出し入れが行えるものです。

主翼はHurel-Duboisとは異なり、長大なアスペクト比は影を潜めましたが、それでも大分小さくなっています。
1963年に初飛行しましたが、実はこの試作第1号機はピストンエンジンを装備していました。
タービンエンジンを装備したのは2号機以後で、開発はかなり難航しましたが、STOL性能はそこそこなれど、実用性という意味ではかなり高く、その後はショート社の主力商品の1つに育っていき、最終的には更にストレッチされたShort360と言う機体を生み出す元になりました。
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2匹のOtter [飛行機]

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昨日は23時過ぎまで仕事をして、ホテルに泊り、7時過ぎにホテルを出て会社へ。
ホテルが会社から徒歩2分の場所だったので、通勤が楽っちゃ楽。
流石に毎日これはしたくない。

先日の風邪の御陰で、お腹が緩くて、今日はものを食べたり飲んだりすると、途端にトイレに駆け込んでいました。
親もどうやら私の風邪が移ったらしく寝込んでいます。
今年の風邪は喉をやられ、食欲が無くなり、お腹に来てと中々本復しません。
インフルエンザよりもある種凶暴かも知れないですね。

さて、昨日はBB-152だったので、今週は何も無ければ飛行機話にでもしようかと思ったり。

カナダはその国土の広大さから飛行機による輸送が発達しており、しかも、未開の地が多い事から、小さな空地からでも離発着出来る機体が重宝されてきました。
カナダの航空機産業は第2次世界大戦で英国資本の企業が多数疎開し、裾野も広がっていきました。

そんな会社の1つに、英国のMosquito爆撃機を生んだDe Havillandのカナダ法人があります。
Mosquitoの量産をした傍らで、戦後は英国連邦向けの練習機を開発して、独自の地位を築きました。
練習機と共に重視したのが、未開の広い国土を縦横に駆け巡ることの出来る多用途機です。

最初の機体はDHC-2 Beaverと名付けられ、かなりの成功を収めました。
ただ、頑丈で離着陸距離が短く、多くの利用者の仕様を満たしていたものでしたが、如何せん搭載量が少ないのが玉に瑕。
市場はもう少し大きな機体を求めていました。
とは言え、双発機にするとかなりコストが上がるので、単発の侭で限界まで搭載量を持たせた機体が望ましい。

かくして、DHC-2を拡大、発展させたDHC-3 Otterが開発されます。
これは従来のDHC-2の使い勝手を受継ぎながら、1トン以上の貨物を搭載出来、かつ陸上機から水上機、更にスキーへの転換も素早く出来、稼働率の高い機体となります。
DHC-2の450馬力から600馬力のピストンエンジンに換装されたことで性能も若干ですが向上しました。

この機体は、DHC-2の後継としてU-1の名称で米軍にも採用され、世界各地の軍民で用いられました。
因みに、日本でもDHC-3は、昔の東亜国内航空の前身、日東航空で1機が用いられ、大阪と徳島の航路で用いられました。
この機体のお値段は、当時の金額で6,900万円だったという記録が残っています。

話を戻して、DHC-3でも大きな成功を収めたDe Havilland Canadaでは、市場のニーズを更なる大型化と読みました。
既に単発では限界に達していたので、当然、今度は双発機となります。

そして、Twin Otterと言う名称の機体を開発し始めます。
これも、原型に忠実に、実用性と離着陸性能に重きを置いた設計となりました。
こうして1958年9月に初飛行したのが、DHC-4です。

この機体はDC-3とほぼ同じ大きさの機体ですが、他のDC-3後継機と大きく異なるのは、その圧倒的な離着陸性能です。
航続距離は320kmと近場の場合、3.5tの貨物を、航続距離1,200km以上だと2.5tの貨物を、または乗客27名と荷物0.8tを搭載して飛行出来ます。
こうした貨物を搭載しながら、熟練したパイロットだと150m、普通の離陸操作でも270mあれば離陸出来るという驚くべき性能を有しています。
着陸も300〜400mなので滑走路は1,000mも要らないくらいです。
その貨物搭載も、矩形断面の胴体と相俟って、内部容積に無駄は無く、後部下面にはランプを兼ねた扉がつきますから、トレーラーに載せた貨物をその侭搭載する事が出来る訳です。

惜しむらくはエンジンが従来同様のピストンエンジンでした。
ただ、世界中に部品が転がっているツイン・ワスプエンジンなので、実用性を損ねるものでは有りません。
この機体は、Otterからはかけ離れた機体となり、結局、愛称はCaribouと名付けられ、これも米軍が多数を発注して、Vietnamの戦場で使われています。

更に、DHC-4のエンジンを、衰退の兆しが見えたピストンエンジンからタービンエンジンのT64に代えたのがDHC-5なのですが、それは本筋から離れてしまうので置いておいて。
ただ、DHC-5はそれなりに成功を収めましたが、丁度、この頃からはタービンエンジンを搭載して垂直に離着陸が出来るヘリコプターの性能向上とかち合ってしまい、米軍の関心も薄れたため、ヒット作にはなりませんでした。

さて、Twin Otterと言えば、この会社の次の作品であるDHC-6が有名です。
これは元々De Havilland Canadaが計画した機体では無く、カナダ空軍が発注した機体です。
1960年代と言えば、飛行機に対し様々なバラ色の夢があった時代、その中でも垂直離着陸、短距離離着陸と言うのは航空機開発に於ける永遠のテーマの一つでした。

カナダ政府は野心的なAvro Carを開発したりもしていますが、一方で地道な研究として、DHC-3を土台に、種々のSTOL装置の研究を重ねていました。
1963年、空軍はDHC-3の改造から一歩踏み出して、機首のピストンエンジンを取り外し、ノーズコーンを取り付け、主翼に国産のPT6Aターボプロップを取り付けて双発化すると共に、胴体内にJ85ジェットエンジンを取り付けて後部胴体左右に推力変向式の排気ノズルを出し、全幅のフラップで揚力係数を4にまで高め、最小飛行速度65km/h、離陸滑走距離は無風でも150m以下という数字を叩き出す実験機、STOL Otterを作り上げます。

このSTOL Otterからジェットエンジンを取り除き、民間機としてリファインしたのが、DHC-6 Twin Otterとして知られる機体です。
乗客は15名を乗せて、満載で305mの離陸距離で飛び上がれるSTOL性能を誇っています。
Otterと異なるのは、翼幅が2.1m拡がり、翼構造が補強されたこと、機首に気象レーダーの搭載スペースが生まれ、その部分に0.6m^3の貨物室が設けられたこと、客室後方にも1.5m^3の貨物室が設けられたことです。

双発化したことで性能が向上すると共に、有視界飛行での安全性が向上しています。
とは言え、当初のOtterとの共用部分は殆どありません。
1965年に初号機が初飛行すると、これもヒット作となり、爆発的に売れました。
日本でも、南西航空が離島便として採用したり、日本近距離航空がローカル線の機体として採用したりして、日本でもよく知られた機体になっています。
なお、この機体は現在でも別の会社にライセンスが売られて近代化改修型の生産が続いており、近年は日本でも第一航空が沖縄の離島便として運航していましたが、残念ながら事故を起こした後、市場から撤退して売却されてしまいました。

何時かは乗りたかった機体でしたが…。
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Junkersの遺産 [飛行機]

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今日は夜から泊まりのお仕事なので、昼間にブログを書いておくテスト。

ここ数日、体調不良で寝ていた際に、ちょっと調子が良くなったらYouTubeを見ていました。
大抵は、音楽のMVだったりするのですが、古き良き懐かしき時代の飛行機の動画もありまして、その中でBB-152と言う飛行機のプロモーションフィルムがありました。

で、以前にも触れたかも知れませんが、今日はその飛行機について書いてみる。

第2次世界大戦前まで、ドイツは世界に冠たる航空大国で、様々な会社が活動していました。
Arado、BFW、Dornier、Hansa、Heinkel、Henschel、Junkers…などなど。
これらの会社は何れも1945年のドイツ敗戦により消滅したり、新たな業態へと転換していきます。
西側の占領地にあった会社は何とか工場設備を活用して復活出来ましたが、東側の占領地にあった会社は、ソ連が賠償として工場設備を接収したために全く復活の目途は立ちませんでした。

しかし、冷戦がそうした状況に歯止めを掛けます。
特にドレスデンにあったJunkersの設備は、撤去はされましたが、生産に携わっていた人材は多く残っていたため、ここを拠点に再び航空機の生産設備を設置し直し、MiG-15やIl-14と言ったソ連製の機体のライセンス生産を始めました。

ただ、MiG-15は兎も角、Il-12はピストンエンジンの輸送機です。
1950年代になると世の中の趨勢はジェットエンジンで動かす輸送機へと変わっていきました。
ソ連本国もそれに応えるべく、Tu-16爆撃機の主要コンポーネントを用いたTu-104を製作していましたが、純粋な旅客機として製作された訳では無いものなので、普通に民間で使うには騒音が酷く、かつ効率が良くありませんでした。

スターリンが死去してソ連の統制が弱まったのも相俟って、各国で自主独立の気運が高まります。
飛行機にしても同じ様なものです。
ポーランドはピストンエンジンの習作から入って、ジェット練習機へと進みます。
これはチェコスロヴァキアも同様です。
両国の場合は、ソ連も余り実績の無い軽飛行機、小型練習機の開発と言うニッチな分野に分け入って、独自の地位を確立しました。
一方、東ドイツは、これとは異なるアプローチを取ります。

Junkersの資産を利用して、一足飛びに大型輸送機を開発した訳です。
これは、1つにはIl-14のライセンス生産を行ってそのノウハウが会ったからと言うのもあったからかも知れません。
兎も角、ドレスデン航空研究所設計チーム指導者であるブルノー・バーデ技師を中心にしたチームは、ドレスデン第2航空機工場でジェット輸送機を設計、試作し、1958年5月1日にロールアウトさせました。

機体の名称は、彼の名を冠したBB-152で、152と言う数字は、有名なJunkers Ju-52に肖って付けられたものです。

実はこの機体、最初、Il-28の後継を目指した爆撃機として開発されたものでは無いかと言われています。
高翼単葉の強い後退角を持つもので、しかも、脚は民間輸送機にとっては胴体内の容積を損ない、バランスが悪い自転車式です。
民間輸送機として設計するなら、低翼単葉で、なおかつ、床下の貨物室スペースを設ける為に、前輪式のオーソドックスな型式にするのが普通だと思われます。

実際、Il-28の後継機として開発されたソ連のIlyushin設計局の作品で、Tu-98と制式採用を競ったIl-54でも、同様な脚配置、全く同じ構造の主翼設計になっていました。
これが設計されたのは1956年ですから、このノウハウを取入れて、BB-152は設計された可能性があります。
もしかしたら、バーデ技師もこのプロジェクトに関わっていたのかも知れません。

エンジンについては、Il-54はAL-7Fですが、これでは経済的では無いし、ソ連でも新設計のエンジンなのでおいそれと国外に技術移転はしなかったのでしょう。
BB-152に関しては、014型と呼ばれる推力3,160kgのエンジン4基を翼下2基のポッドにまとめて配備しています。
これは、Jumo004の発展型だと思いますが。
試作機にレドームは見えず、ソ連の飛行機によくある、武骨な航空士席と思われる透明部分が設けられています。
座席は48〜72名の想定で作られていて、ギャレーも設けられていました。

東ドイツのフラッグキャリアであったLufthansa(East)は、この機体を中距離路線に使用する予定だったそうです。
発展型として、更に90名乗りに大型化したBB-153も開発されていました。

しかし、このBB-152、これ以上は発展しませんでした。
市場が見込めなかったのもありますし、ターボジェットではこの程度の輸送量では経済性が無かったためでもあります。
かくして、BB-152はJu-52になり損ねました。

最大の理由は、COMECONの分業経済体制の中で、各国が独自の旅客機を持つ事をソ連が許さなかったからです。
中型及び大型の旅客機なら、ソ連には対抗出来る機体がIl-18を始めとしてありますからね。
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