大陸反攻と台湾 [読書]
今朝は8時前に起きたのに、そのまま二度寝入りして目が覚めたら10時過ぎ。
慌てて身支度して、リハビリへ出かけました。
朝は未だそんなに雨が降ってなかったのですけどね。
リハビリに出掛けた後、同じ医療ビル内の皮膚科にも寄ってきたわけで。
ここ数日、手がいきなり痒くなり、気が付くと水膨れが出来ていて、それを剥がすと痛いと言うね。
手足口病かも知れないと思って念の為行ってきた訳です。
結果、乾式湿疹だったみたいで、塗り薬を処方されました。
実際、塗り薬を塗ると今迄ガサガサだった肌に潤いが戻ってきました。
とは言え、余りこれに頼るのもどうかと思うのですが。
さて、昨日に続いて今日もここ数ヶ月読んでいた本の紹介。
『大陸反攻と台湾 中華民国による統一の構想と挫折』(五十嵐隆幸著/名古屋大学出版会刊)。
今は中華人民共和国が台湾に侵攻するかどうかと言うので、世の中が喧しいですが、元々台湾にある政府と言うのは1949年まで本土を支配していた中華民国政府です。
現在は中華人民共和国の軍事力が勝っていますから、台湾侵攻とか言う話になっていますが、双方共決め手に欠けます。
中華人民共和国の方は、機動部隊や核ミサイルを有しており、空軍力も圧倒的ですが、如何せん膨大な陸軍部隊を台湾に侵攻させる水陸両用艦隊が少なすぎて、台湾海峡を渡るにはかなりの損害を覚悟しなければなりません。
逆に言えば、中華民国軍はそれを防げば、核を落とされて全土が灰にならない限り、勝利する訳です。
但し、国土はボロボロになると思いますが。
ところが、1950年代や60年代は中華人民共和国の支配が完全に固まっていませんでした。
そうした動きを見て、台湾に逃れた蒋介石は「大陸光復」を唱え、中華民国の国是とし、実際に本土への侵攻を何回か試みようとします。
この本は、こうした中華民国政府の「大陸光復」が立案された後、中華人民共和国と米国との間で翻弄されつつ、何とか「大陸光復」を達成しようとした過程、そして、米中国交回復が為された後、米華国交断絶に至ると、「大陸光復」は意味を為さなくなり、蒋介石死後に蒋経国によって事実上棚上げされていく過程、そして、「大陸光復」政策そのものを葬り去って行く過程を、それぞれ主に中華民国政府の一次資料から紐解き、それに米国公文書館に保管されている米国政府の資料や蒋介石日記、蒋経国の日記、当事者のインタビュー、対峙する中華人民共和国の報道や公開されている論文などを組合わせて解き明かしたものです。
特に反共政策を強く打ち出していたトルーマン政権、アイゼンハワー政権時代、前者は朝鮮戦争の中共軍参戦を破綻させるために、第二戦線を打ち出すべきだと米国政府に強く迫っていましたし、後者の強烈な反共政策に呼応し、中国本土が大躍進政策の失敗で混乱している時に、本土に侵攻して華南を抑えるという作戦を打ち出して支援を求めていました。
これらの反攻作戦については、中華民国海軍としては、特に小艦艇と水陸両用艦艇が圧倒的に足りず、そこを米国の海軍力で補う予定で作戦を組み立てたものの、後についていたソ連が参戦して第三次世界大戦に至ることを恐れた米国によって阻止されています。
また中華人民共和国軍の人海戦術に抗するのが難しく、本土に近い島嶼群は、金門島や馬祖島に近い島嶼を除き、放棄するに至っており、中華民国軍の実力にも疑問符がついていました。
1960年代にはケネディ・ジョンソン政権がヴェトナムに肩入れするのに呼応して、北ヴェトナムを支援する中華人民共和国の支援ルートを切断する為、ビルマ国境にいた中華民国軍残党を増強して、文化大革命に揺れる雲南や貴州に侵攻させチベットの反乱をも支援する作戦を立てていましたが、丁度、中華人民共和国側が核実験に成功したことから、本土を刺激したくない米国側によって阻止されています。
また、沿岸部への小艦艇による海戦も、甚大な被害を出したり全艦撃沈と言う結果に終わったりし始めて、中華民国軍の軍事力や軍の作戦指導力に対する疑念も政府内に湧いてきます。
そこへ降って湧いたのがニクソン政権による米中国交回復で、中華民国政府の大陸光復は完全に息の根を止められます。
ただ、どの国でもそうですが、国是となっていた政策をおいそれとは止められず、どうやって店じまいをするか、蒋介石の後を継いだ蒋経国の手腕に委ねられ、彼は大陸光復政策を目立たない様に修正して、無かったものにして行ったのです。
こうした経過を一次資料を駆使したり、当事者にインタビューをしたりして取り纏めたのが本書です。
今の台湾政府が強かな政策を行っている原点が、この大陸光復政策にあったと思われます。
彼等は、時に迎合し、時に反発して、米国政府と丁々発止の渡り合いをしているわけですから、そりゃ、中華人民共和国側でも一筋縄に行かないと思わせることに成功していると思います。
そう言えば、中ソ対立の時代、大陸光復に米国が頼りにならないと考えた中華民国政府は、選りに選って、米国の敵だったソ連と手を組む事を考え、ソ連とのパイプを作って、交渉をしたりもする強かさを見せています。
ソ連が北方から中国に攻め込むと同時に、中華民国も華南から攻め込もうとしていたらしい。
こうした裏面史もちゃんと拾っているところに、史料を読み込んだ事が現れています。
因みに、作者は少年工科学校から自衛隊一筋で来たたたき上げの自衛官で、偶々防衛大学校に進学する機会があり、台湾問題に興味を持って論文のテーマに大陸光復を選んだそうです。
自衛官というフィルターが掛かっているのかと思いきや、思想的に偏っているわけでも無く、論文としても優秀だと感じました。
鉄道・路線名のひみつ [読書]
今日は京浜東北線で久々に座れたので、そのまま川口に出てサンテピア行きに乗って帰ってきました。
何とか空は保っていたものの、家に着く直前から雨がパラつき始めました。
せめて後5分早ければ降られなかったのですが、ついていません。
さて、そうした電車での通勤中に読んでいた本の紹介。
『鉄道・路線名のひみつ 木更津線、人吉本線を知っていますか』(今尾恵介著/日本加除出版刊)
元々は日本加除出版の『住民行政の窓』と言う雑誌で連載していた記事を纏めたものです。
その名の通り、路線名や鉄道会社の名前にどんな謂れがあるのかと言うのを書いた本。
この人の本は何時もの様に読みやすいところがありますが、所謂初心者向けの本でもあります。
そもそも、鉄道路線名等と言うのは明治初期には存在していませんでした。
当時は省線と呼ばれる新橋と横浜を結ぶ線しか無ければ、他に識別する必要がありません。
しかし、明治中期から彼方此方で鉄道の建設が始まると、そうも言っていられなくなり、取り敢ず、街道沿いに建設された路線にはその街道名がつきました。
但し、中山道については中央線という名前が付けられたわけで。
その後、ちゃんとした命名規則が制定されて、幹線として建設された路線から、支線が出ていた場合はその幹線には「何々本線」と言う名前が付くようになりました。
また、東西から延びた路線には何々東線とか何々西線、南北から建設が始まった路線には、何々北線とか何々南線という名前が付き、それが全通すると大抵の場合、何々線と東西南北が外れます。
路線名には大抵起終点の名前から取った名前が付きますし、旧国名の一文字を取った路線を組合わせた名称もあります。
信越本線は、信州と越後を結ぶ路線ですし、東横線は東京と横浜を結ぶ路線です。
ところで、副題になっている木更津線は内房線の一部となっている路線で、蘇我~姉ヶ崎を結ぶ路線の事です。
その後、南へ南へと線を延ばし、安房北条(今の立山)まで開業すると北条線と名前を変えます。
そして、安房鴨川まで全通を果たした後、逆方向から延伸してきた房総線と接続した後、千葉~蘇我~大網~安房鴨川~安房北条~木更津~蘇我の路線全体が房総線と名付けられましたが、同一路線名では蘇我から大網に行く列車なのか、蘇我から木更津に行く列車なのか区別がつかないためか、4年後に千葉~大網~安房鴨川が房総東線、蘇我~木更津~安房鴨川を房総西線と改名し、今はそれぞれ外房線、内房線となりました。
もう1つの人吉本線は、門司と鹿児島を結ぶ鹿児島本線のルーツで、最初は人吉が終点だったため、人吉線と名付けられ、それに色々と支線があったので、人吉本線となりました。
その後、峠越えの路線が完成して鹿児島まで全通すると、晴れて鹿児島本線に改名されました。
ところが、本線の栄誉は長く続かず、八代から海沿いに南下した肥薩線と鹿児島から海沿いに北上した川内線が接合して全通すると、今度はこの路線が鹿児島本線となり、それまでの鹿児島本線は肥薩線に格下げされました。
こうした例は東海道線の熱海~小田原も含め、各地の路線でもあります。
取り敢ず、当時の技術が未熟で開通させたは良いものの、列車本数を増やすのが難しく、一方で土木技術が発達してトンネルや橋梁の建設方法が向上した為に、今まで路線を敷設できなかった区間に平坦な路線を建設することが出来た為、本線がそちらに移り、元の路線は支線に格下げされた訳です。
このような例を短い文章に纏めて、かつ当時の地図や路線図を掲載して、読者各位に解り易く伝えようとしたのがこの本です。
決して、学研の「ひみつシリーズ」ではないので悪しからず。
鉄道・路線名の・ひみつ ―木更津線、人吉本線を知っていますか
- 作者: 今尾恵介
- 出版社/メーカー: 日本加除出版
- 発売日: 2023/08/18
- メディア: Kindle版
ジャム、ゼリー、マーマレードの歴史 [読書]
台風10号はとうとう週末に日本列島を縦断するらしいです。
そんな中、土曜日に私は休日出勤でサーバルームのワックス掛け立ち会いですよ。
晴れていれば、その後羽田にでも行こうと思いましたが、この調子では大荒れの天気なのは目に見えています。
幸い、南北線は浅いところを走る地下鉄と違って雨に強いので、行き帰りはすんなり帰る事が出来ますが、会社までの道のりが、最近、ビルの新築工事で雨除けが撤去された御陰でずぶ濡れになる事請け合いなんですよね。
合羽を着て行くにしても、滅茶苦茶蒸し暑かったらイヤだなあと思ったりする。
せめて、上陸したらとっとと去ってくれませんかねぇ。
まぁ、無理な注文とは思いますが。
さて、ここ最近、通勤の行き帰りに読んでいた本の紹介。
最近は電車の席に座っていてもそのまま頭を垂れる(=眠る)事が多くて、中々本を読む気力が起きません。
なので、かなりペースが落ちています。
今回は『食の図書館 ジャム、ゼリー、マーマレードの歴史』(サラ・B・フッド著/内田千穂子訳:原書房刊)の紹介。
原書房が歴史ジャンルとは言えこんな本を発行するのは珍しいのですが、この食の図書館シリーズは100冊以上も出ているものになります。
結構出版するのも大変だと思うのですが、ネタを集めるのも大変じゃ無いかなぁと思った。
今回の本はカナダの大学教授が書いた本となります。
一応、古代ローマやペルシャで作られたジャムやゼリー、マーマレードから説き起こすのですが、その後は一気に16世紀の欧州に飛びます。
まぁ、この辺はカナダのようなある意味欧州文化圏に位置する人が書いているので仕方無いですね。
ローマやペルシャで作られたのは、果物を蜂蜜やシロップに漬けたものです。
当然、こうしたものはコストが掛かり、余り庶民の口には入りません。
これが劇的に改善するのは植民地支配が確立した16世紀な訳で、ラテンアメリカで作られた低コストの砂糖が欧州に入ってくると、先ず貴族のデザートとして果物の砂糖漬が作られ、それを寒天質で包んだゼリーが作られていきます。
その後、英国が各地に進出してプランテーションで砂糖を作り始めると、その量が劇的に増え、産業革命とも相俟って一気に砂糖の価格も下がり、ジャムやマーマレードと言った果物の砂糖漬が庶民の食卓に上ることになります。
そう言う意味では、植民地の奴隷労働の結果が、宗主国の庶民の食卓を潤すと言う結果になった訳です。
一方で、ジャムやマーマレードと言ったものは、当初は農家の副業で作られました。
自前の果樹園がある農家が、形の悪い生食用の果物を棄てる代わりに、スライスして砂糖に漬けたのが始まりです。
それが段々と評判を呼び、19世紀にはそれが一種のベンチャーとなって、業容を拡大していくと共に、資本家の手に依って大規模工場が作られるようになります。
小規模農家から発展した会社は、全体的に家族的な会社が多かったのですが、資本家が資本を出して大規模な工場を最初から設立する様なところでは、今と同じ様な、否、今よりも酷い奴隷的な労働でこうした製品を作る会社もありました。
19世紀末になると、そうした会社のいくつかで争議が発生し、社会問題になるところも出て来ています。
大体、こうした会社の製品はボイコットされてしまい、行き詰まった会社は別の会社に買収されて、段々、巨大加工食品工業へと変貌を遂げていきますし、家族経営で始まったところも、代替わりの際に経営者一族が株を手放して、その会社のブランドイメージを欲した巨大加工食品工業に売却することも多くなりました。
しかし近年では、SDGsに代表される様に、巨大資本のブランド品よりも、近場の果樹園から新鮮な果樹をジャムやマーマレードなどに加工する小規模事業所が見直されています。
この本は、確かにタイトル通りの部分はあるのですが、寧ろ、こうした製品を作る食品工業に光を当てた感じの本になっています。
でもって、ジャムやマーマレードの記述はあるのですがゼリーはほんの一部しかありません。
そして、最初に書いた様に視点は英語圏視点で描かれているので、大陸のこうした製品の発展には余り焦点が当たっていないように思えました。
多分、そこまで深く突っ込んだら、今のページ数の倍になるので、手軽な価格で出す事が出来ないのかも知れませんけどね。
中国料理の世界史 [読書]
今日は6並びの日、令和6年6月6日。
666というと我々の世代に取ってみれば「オーメン」を思い浮かべるのですが、最近は6並びだから珍しいとして記念切符なんかが発売されるそうで、時代は変わったなぁと思います。
さて、やっと書ける。
『中国料理の世界史 ~美食のナショナリズムをこえて~』(岩間一弘著/慶應義塾大学出版会)。
日本では「中国料理」ではなく中国の料理というのは「中華料理」と言うジャンルで括られるのですが、この本のタイトルは「中国料理」です。
何故、中華料理でなく中国料理なのか。
実は中華料理と言うのは日本独自の表現だそうです。
その中には、日本で独自の発展を遂げた中国料理擬きである、様々なメニューが含まれています。
ラーメンにしろ、餃子にしろ、中国ではそれに似た料理はありますが、同じものは有りません。
有名なのは天津に行って、天津飯を頼んだのに怪訝な顔をされたという話。
それというのも天津飯は、日本独自に発展した中国料理で、日本でしか通じなかったりします。
そんな話は後半に出て来るのですが、先ずは中国本土での中国料理の位置づけです。
最近の急激な経済発展で力を付けた中国は、中国四千年の味である中国料理をユネスコの世界無形文化遺産に登録しようとします。
ところが、中国料理は歴史が長いにも関わらず、登録に失敗してしまいます。
要は、何が中国料理なのかと言う事を政府が纏めきれなかった訳です。
考えてみれば、中国は国土が広く、国の中でも様々な文化があり、当然料理も様々なものがあります。
有名なものだけでも、広東料理、四川料理、北京料理、上海料理と言うジャンルがありますし、チベット料理とか満州料理、福建料理などなど、何処を取っても1つのジャンルとして成立しているものばかりです。
これらの中から「中国料理とは」と問うても、おらが地域の料理こそ中国料理であると言う自負があり、それぞれの地域が主導権争いをした結果、結果的に内部分裂して、中国料理として統一したアイデンティティーを持てなかったのが敗因です。
このように、中国料理の中味は以前取り上げたイタリア料理と同じく、様々な地域の料理の集合体である訳で、これが時代によって北京料理から広東料理、そして四川料理へと政治的指導者が替わる度に主流が変わっていきました。
例えば、清末は北京に政府があったので、当然北京料理が公式の中国料理です。
それが辛亥革命で北京政府が倒れると、南京に中華民国が成立し、広東料理や上海料理が主流になっていきます。
そして、日中戦争で南京から重慶に遷都すると、今度は四川料理が主流になると言う感じ。
中国共産党が政権を握ると、各地の料理人を北京に集めて、中国料理として均質化を図りますが、あくまでも主流は北京料理や上海料理であって、中々四川料理は主流になれません。
さて、周縁部の香港にしろ、台湾にしろ、東南アジア諸国にしろ、華僑が赴くところ、常に中国料理は存在します。
しかし、その料理は華僑として渡る人の出身地の料理が主流になります。
例えば、福建省出身者が多ければ福建料理が、広東省出身者が多ければ広東料理が主になります。
やがて華僑が食べるだけだった中国料理は、手軽さと安さが魅力となり、華僑以外の人々も中国料理を食べるようになり、更にその料理は現地人によって作られるようになると、現地の人達の味覚アレンジが入り、食べられるようになっていきます。
こうしてその地域の人々の国民料理として受容され、元の中国料理とは違う、一種の中国料理亜種が誕生する訳です。
これは中国周辺のアジア地域でだけ起きた話では無く、19世紀後半から行われた移民により、或いは米国で、或いはインドやアフリカで、或いは欧州や中南米で、同じ様なことが起きています。
特に米国においては、李鴻章が広めたとされるチャプスイなる料理が、中国料理の典型として広まっていき、これが米軍のレーションになったりもしています。
これ、原形は広東料理なのですが、先程の現地化と同じ様に、米国でのアレンジが為されて米国の中国料理として認識されて行きます。
このチャプスイが、米軍のレーションを通じて欧州に渡ったりした訳です。
しかし、移民の出身や質が変わっていくとなんちゃって中国料理であるチャプスイは下火になり、今度は中国各地の料理が主流になったりします。
意外なのは日本で、江戸期には長崎を経由した卓袱料理や僧侶を通じて入った普茶料理が主流で、これは中国本土の影響を受けた料理でしたが、明治期には中国を見下す政策が為されたせいか、中国本土からの影響が低下し、寧ろ舶来品であるチャプスイが受容されたそうです。
その後、戦地で中国料理を食べた人達や引揚者が日常の糧として、町中華を開業し、日本人の舌に合わせた現地化により、一般庶民に中華料理を普及させていき、中華料理と言う中国料理とは異なる系統の中華料理と言うジャンルを生み出したとあります。
600ページに近い本なのですが、内容は中国本土に於ける中国料理の変遷に触れていたり、華僑が割った先の各国の中国料理のローカル化についての考察とかが書かれていて、非常に興味を持って読むことが出来ました。
最初、出だしを読んだときには、巷によくある反中本の1種かと思ったりしたのですが、読み進めるほどに資料や現地調査をきちんと行って書かれた本であることが判り、作者に大変申し訳ない気持ちで一杯でした。
そりゃ、様々な賞を受賞した本だというのもよく判ります。
それにしても、「和食」だって日本と言う1つの国の料理なのですが、これが世界無形文化遺産として登録出来たのは、本土の料理を「和食」として無理矢理定義したもので、九州各地の料理や琉球料理、北海道のアイヌの料理を排除したものじゃないかなあなんて思ってしまうわけです。
ま、それはこの本のテーマじゃないですからどうでも良いことですが。
遠すぎた家路 [読書]
今日は何となく予感がして、何時もより少しだけ早めに帰宅。
少ししたら土砂降りの雨。
危うくびしょ濡れになって帰る事になるところでした…と言っても、傘はありましたが。
さて、今日はやっとこ書評。
『遠すぎた家路 戦後ヨーロッパの難民たち』(Ben Shephard著/忠平美幸訳:河出書房新社刊)
ほぼ10年前の本で、作者は英国人でプロデューサーとしてBBCのドキュメンタリー番組を多く手がけた人です。
第2次世界大戦末期、ドイツは徐々に敗色が濃くなってきたものの、戦争を遂行するには兵器を生産し、国民に食糧を配給するために労働力を必要としていました。
とは言え、健康なドイツ人男性はは前線に兵士として駆り出され、女性くらいしか国内にまともな労働力は残っていません。
また、兵士ですらドイツ人が動員出来なくなってきました。
このため兵士として、旧バルト三国や北欧、西欧の占領地の人達を動員し、労働力としてはフランス、ベネルクス三国、北欧諸国と言った西側の占領地からは元より、東欧諸国やウクライナ人を募って工場や農場に送り込みました。
また、緒戦では絶滅収容所に送っていたユダヤ人ですら、末期には工場に動員していました。
勿論、交替可能な労働力として最低限の生活しかさせませんでしたが。
ドイツが敗北すると、ドイツには様々な人々が入り乱れるようになります。
動員された西欧諸国の人々や、東欧諸国の人々、ユダヤ人、ウクライナ人、バルト三国の人々、東欧やソ連から少数民族として迫害され追放されたドイツ人、ドイツに協力して戦ったクロアチアやセルビアの軍人たち、それと亡命ポーランド政府に忠誠を誓い、連合国側に立って闘ったポーランド人など。
占領政策を考えていなかった連合国、特に米英はその後始末に翻弄されます。
長々と書いてきましたが、この本はドイツの敗北でドイツに取り残された、或いはドイツに辿り着いた数百万の人々を米英がどの様に「処理」したかと言うのを記録した本になります。
この本を読むと、難民はユダヤ人だけではない事が判ります。
ユダヤ人についても、「ナチスドイツに迫害された可哀想な人々」と言う側面もありつつ、米国も英国の外交当局は、パレスチナに彼等を極力送り込みたくないと言う思惑がある事が判ります。
しかも、当のユダヤ人達も当初はパレスチナに行きたがる人は少数で、米国に渡りたいと言う人達が大多数でした。
ベン=グリオンなどの活動家がユダヤ人のキャンプに入って煽動し、難民という厄介払いをしたい軍政当局はそれを暗黙の了解で、パレスチナへの密入国を手助けする側に立ちます。
しかし、活動家に煽動されてパレスチナに渡った20万人の難民のうち、第1次中東戦争に兵士として従軍した難民キャンプのユダヤ人達は、殆ど生き残ることが出来ませんでしたし、パレスチナに移住しても住居も何も無い状態で放り出された人達も多く居ました。
ポーランド難民も頭の痛い問題でした。
ポーランドは共産化してドイツから戻った人々は共産化に馴染めず、またドイツに舞い戻ります。
また、イタリアで戦闘していた亡命ポーランド陸軍の師団は本国に復員することを拒否して、場合に依っては武力に訴えると言う事で、これまた連合国の頭痛の種になりました。
ウクライナ人の大多数は本人達が拒否したにも関わらず、ソ連に引き渡されましたが、ソ連が併合したオーデル・ナイセ線から東の旧ポーランド領に住んでいた人達はポーランド人としての扱いを受けました。
このため、本国に帰還したくないウクライナ人達は西ウクライナに住んでいたポーランド人になりすまして、上の難民に合流します。
クロアチア人やセルビア人兵士達は、何の配慮も無く、チトーのユーゴスラヴィアに引き渡されましたが、これらの兵士の大多数は迫害され、最悪の場合殺されたりしました。
比較的連合国の受けが良かったのがバルト三国人です。
特に英国では、ナチスドイツ並の人種差別を剥き出しにして、金髪長身のバルト三国人は受容れるが、それ以外の人々は受容れないとしていました。
しかも、若い女性のみの受容れで、彼女達を受容れて何をさせたかと言えば、病院の看護師です。
米国は英国以上に難民受入は容認出来ないとして、殆ど受入をしませんでした。
その後、要件を緩和して難民の受入を行いますが、その殆どが農業労働者としての受入で、頭脳労働者でも一律に農村に送り込まれました。
また、冷戦勃発後には民族ドイツ人の受容れも始め、其の中に紛れ込んだ多くの戦争犯罪人が米国に渡ったと言います。
他の連合国や中立国の難民受容れも似たり寄ったりで、高等教育を受けても炭坑夫とか鉱山での採掘、農業労働者など肉体労働者としての要求しかありませんでした。
1951年までの6年で、100万人に登る難民が故国を離れ、海外に再定住することになります。
以後、何等この問題は顧みられないまま、戦争の度に彼方此方で難民問題が繰返されることになった訳です。
因みに、ドイツについても難民問題は影を落としています。
元々ドイツに連れてこられて強制労働をさせられていたわけですから、賠償問題は常にドイツ政府や強制労働をした会社に突きつけられていたわけです。
ドイツ政府は、この問題に就いては外交上の利益がある時だけ賠償金を支払いました。
一方で、裁判所は強制労働を「ナチスの典型的な悪事」として認めていません。
ドイツ政府は個人に対する賠償金支払を認めておらず、「自発的」支払いを組織に対して行い、その組織が賠償金を分配すると言うやり方を取っています。
ただこの流れは、米国で1990年代にダイムラーベンツなどが集団訴訟の被告となり、米国市場での営業を脅かし始めたのが転機となり、1997年にアウシュビッツで働いていた高齢女性に15,000マルクの支払を司法が認めることになりました。
そうなると、当時10万の元奴隷が生きていた為、総額が数百億に達する可能性が取り沙汰されます。
これに対してフォルクスワーゲンなどの大手企業は、これまで保存記録のアクセスを拒否し、都合の悪い事実を抹消していたのを改め、著名な歴史学者を雇って記録を調査することにしました。
徹底的な歴史学者の調査で、自分達の恥ずべき行為を曝け出されて一時的な評判の低下があっても、世間は直ぐに忘れ去り、これで禊ぎがすんだと言うことになります。
要は奴隷労働者への賠償よりも歴史学者への報酬の方がはるかに安いと踏んだわけです。
また、2000年にドイツ政府は政府と産業界の共同出資で賠償を支払う基金を設立します。
とは言え、賠償を受けるためには志願してドイツに来たわけでは無いと言う証明が必要で、元奴隷労働者達はそんな証明を持っていなかったり、当局に取り上げられたりして紛失しているケースが多く、殆どが門前払いとなりました。
この基金は、2007年までの7年で43.7億ユーロの支払を170万人に対して支払い、終了しましたが、個々の人間に支払われた額は奴隷労働に最高で7,669ユーロ、工場の強制労働には最高で2,556ユーロ、農業の強制労働では最高で1,022ユーロという極めて少額の賠償でした。
戦時賠償についてドイツを手本にすべきという人もいますが、こんな欺瞞的なやり方で賠償を切り抜けている訳で、決して褒められたものでは無いのは心に留めた方が良いと思います。
総じて今の難民問題の源流を見る事が出来ますし、国家と言うのがこうした奔流とも呼ぶべき難民問題に対して何の能力も無いし、国際機関も余り力が無いと言うのが良く判る本だったと思います。
バイちゃ! [読書]
今日は朝起きてみると見事に雪が積もっており、早々に出勤を諦め在宅へ。
まぁ、元々在宅の予定だったので気にはなりませんが。
そして、ここ数日の手足の不調を考えて、いつもより早く終えて整形外科医へ。
いつもはリハビリを優先するのですが、今日はリハビリをして良いのかどうか判断が付かなかったので、診察を御願いします。
暫くして診察の順番が回ってきたのですが、結論「リハビリを続けましょう」。
痛み止めを服用するという手も無くは無いのですが、結構きつい薬になるので、身体にも良くないということらしい。
温和しく引き下がって、リハビリに行きましたとも。
まぁ、棺桶に片足を突っ込んでいる様な医者なので、かなり知識は偏っていて、今の最新医療技術に懐疑的な医者には違いないのですが、確かにリハビリを続けると言うのも1つの解決策ではあります。
だから、この医者は地域のお年寄りからは好かれているのだろうなと思う。
即効性のある処方に頼ろうという今の世代から見れば、かなり嫌われ要素なのかも知れませんが。
そんなこんなでうちに帰ってきたら、今年に入って何件目?という訃報が入ってました。
鳥山明さんが硬膜下血腫でお亡くなりになったとか。
子供の頃、硬膜下血腫とは言わないまでも、硬膜外に出血した経験のある身からするとこの死因も身近に感じられてしまいます。
最近の人は、ドラクエシリーズとかドラゴンボールの世代が多いのでしょうが、私の場合はやっぱり『Dr.スランプ』ド真ん中世代ですね。
まぁ、私はジャンプよりはサンデー贔屓だったのですが、闘争漫画の多かったジャンプの中では、ギャグ系だった鳥山明の『Dr.スランプ』とか江口寿史の『ストップ!ひばり君!』とかはコミックスを結構買ってましたね。
その後、『ドラゴンボール』になってからは離れましたが。
鳥山作品のメカは、いずれもその懲りようはハンパない感じでしたね。
デフォルメする部分はありつつも、ちゃんと見れば何々だと一目で判る画力のある漫画家さんでした。
自分を書く時は、壊れたゼンマイ仕掛けのブリキのロボット的な自画像で、その姿で良く自作にカメオ出演されていましたっけ。
内輪ネタが出たら作品として終わりなんて言われていた時代ですが、編集とのバトルなんかも時々欄外とかに書いてあって、その編集が「Dr.マシリト」としてキャラクター化され、則巻千兵衛博士のライバルとして作品に出て来ましたっけ。
スーパーマンのギャグバージョンとしてスッパマンなんて出したりして、今だったら、彼方此方から訴訟起こされてもおかしくないのですが、これはあの時代だから出来たのでしょうね。
Dr.マシリトもそうですが、ニコちゃん大王とか敵キャラも憎めないキャラクターだったのは3頭身くらいの大きさだったからかなぁ。
そうそう、頭身と言えば、則巻千兵衛博士が、みどり先生の前では3分間だけ8頭身になると言う術を使ってましたっけ。
今手許に漫画が無くても、これだけ覚えているのは、やっぱり子供の頃に読んだ本の影響力の強さを物語っているように思えます。
国民栄誉賞ものだという声もありますが、政治屋の人気取りに利用される国民栄誉賞は辞退してほしいなぁ。
そう言えば、このニュースは5分以上も報道したのに、自○党の青年局長が辞職したなんてニュースは梅雨ほども報道しませんでしたね、某公共放送の19時のニュースは。
これだけ世界中に愛された漫画家さんなんですから、ここは一つみんなで「バイちゃ!」と微笑んで送り出したいものです。
アイドル歌会公式歌集 [読書]
今日はNISAの日と言う事で、投資に金出せと何処からの差し金か知りませんが、国民を博打に駆り立てるのに余念がありません。
個人的には、投資=博打と言うイメージが強いので、余程の事が無い限りそう言うことはしません。
ましてや、ここ最近は株高が先行して、明日にでもバブル相場を超える位の株価になるらしい。
手許に400万円あれば、100万を国債に、100万を現金、100万を投資に、100万を貯金と言う感じでリスク分散をして、何が起きても傷は最小限に出来る様にするのが理想なのですが、そんな資金に余裕のある人ばかりでは無く、そうした人ほどハイリスクハイリターンの一攫千金の夢を見て、一点買いをする訳で、ドンと落っこちると傷が深くなる、と。
個人的には、今は投資するよりも国債とかの方が良いのでは無いかと思いますけどね。
今の株価を見ていると、いつ底割れするのか判らない怖さがあります。
大体、煽る人ほど自分達はそうした商品を買わないのですから、損するは個人ばかりなんですよね。
そんな話は置いておいて、ここ数日、通勤の行き帰りで読んでいた本の紹介。
『アイドル歌会公式歌集1』(編者:俵万智、笹公人、吉田尚紀/短歌研究社・講談社刊)。
1があると言う事は、今後2が出る可能性も有るかなと思ったりする。
俵万智さんが絡んでいると言う事は、ガチの短歌集で、アイドルのお遊び的な本では無いです。
そして、出版元も短歌研究社という、短歌の出版をしているガチの出版社。
元々2020年に俵万智さんが『ホスト万葉集』と言う新宿のホスト達が詠んだ短歌を編者になって成功を収めたのが発端で、アイドルが短歌を詠んだらどんな作品が出来るんだろうと、笹公人さんがニッポン放送のアナウンサーであるゴボウこと吉田尚紀さんに声を掛けて、2021年に第1回を開催して以来、チケットの取れない名物企画になり、1年分の作品を書籍に纏めたもの。
総勢14名のアイドルが参加して100首余りの短歌を収録し、更に彼女達が考えた上の句或いは下の句に、ツイッターでヲタ達が付句をした1,000首余りを掲載しています。
勿論、それなりに文学的素養のあるアイドルさんが参加しているので、時には俵万智さんや笹公人さんを唸らせる様な句も出て来て、31文字のファイティングバトルの結果が並んでいます。
毎回のルールとしては、運営から2つのお題が出され、それに沿った句を考えると言うものと、後、お題が自由な自由句の最低3句を考えるというもの。
スタダからはエビ中の真山りかさんと、いぎなり東北産の律月ひかるさん、ソロアイドルで浪江女子にも所属している播磨かなさんが参戦。
真山さんの作品は結構真っ直ぐな感じの句が多く、やっぱりこう言った所性格が出ているなぁと思ったりする。
俵万智さんが推敲してアドバイスをした句もあったのですが、手直しせずにそのまま行きますとキッパリ告げたなんて言う裏話もあったりして、普段の真山さんが垣間見える感じがしました。
律月さんの作品は俵万智さんが激賞しているくらい、ワードの選び方が独特で、最近作詞もやっていると言う事なので、言葉遊びをうまく句に昇華させている天賦の才があるのだなぁと思いました。
普段の言葉選びも独自の世界を築いていて、まさにうさぎ天使魔法少女ワールドだと。
播磨さんの句で印象に残ったのが、2つのグループの解散に立会ったことに対する感慨を詠った句。
普段、おちゃらけた印象しか無かったのですが、その影に深い透察力を持って居たのだなぁと、そしてアイドルをまだまだ続けて行こうと言う強い意志を感じました。
他にも様々なアイドルさんが印象深い作品を残しています。
その中にはコロナ禍の波に抗えなくて、解散したグループのメンバーもいれば、自ら卒業を選択したアイドルさんもいます。
一瞬の刹那を切り取った様な作品もあり、単に色物の句会の短歌とは思えませんでした。
恐らく、作詞をするアイドルさんはこうした31文字の世界でも通用すると思うのですよね。
他のアイドルさんでも面白い句を作り出す人はいるのでは無いでしょうか。
今後、第2弾、第3弾が出るのか気になるところです。
世界の魔改造旅客機 [読書]
今日は本当なら在宅にしたかったのですが、物品の引き取りがあるので出勤せざるを得ない。
と言う事で、頑張って早起きして、足拵えをしっかりして会社へ。
そして、足拵えをしっかりした御陰で、鍵を持っていくのを忘れました(苦笑。
1つ何かすると1つ忘れるんですよね、最近。
年は取りたく無いものです。
電車が遅れることも無く、何とか時間通りに辿り着き、会社に駆け込んだと同時に電話が鳴り、物品の引き取り業者がやって来ました。
正に間一髪です。
頑張って早起きした御陰で、夕方には電池切れを起こし、早々にお帰り。
今月は残業時間が全然増えません。
まぁ良いことと言えば良いことなのでしょうが。
さて、ここ数日通勤途上で読んでいた本の紹介。
『ギネス認定カメラマンチャーリィ古庄が撮った! 世界の魔改造旅客機』(イカロス出版刊)。
まぁ、通常就航していた旅客機から、変わったものを輸送する飛行機に改造された機体の紹介なのですが、正直、飛行機の場合は構造上、余り大きく動かせないものなので、どうしても何処かに名残が残ります。
鉄道車両の場合は、台枠だけ流用して、車体から何から全部載せ替えて、それこそ魔改造と呼べるものが数多くありますが、そう言う意味に於いて飛行機は、そこまで大きな改造があるものは少ないです。
大きく改造されて外見が変わるのは、規格外の大型貨物を輸送する機体。
例えば、セントレアによく飛来するB.747を改造したB.747-400LCF。
機首部に名残はありますが、胴体部は縦に大きく引き延ばされ、後部胴体がポッキリ折れてB.787などの主翼など大型の部品を世界各国から米国の工場に運ぶ為の専用機です。
同じものは、エアバスにもあり、最初はA.300-600を改造したベルーガはまだ面影を残しているのですが、A.330を同じ目的にしたベルーガXLは殆ど原形を留めていません。
そう言う意味では完全に魔改造ネタです。
元祖魔改造機としては、アポロ計画のブースターなどの大型部品輸送用にボーイング377ストラトクルーザーから改造されたグッピーシリーズがあります。
これも機首部と主尾翼は原形を留めていますが、エンジンはピストンからターボプロップに換装されたり、胴体は大きく縦に引き延ばされてまるでグッピーみたいな外観になったりしています。
それをもう少し小振りにしたのがCL-44Oで、こちらは原形が残りつつ、胴体だけ膨らませた格好です。
これとて、更に遡れば英国の旅客機であるブリストル・ブリタニアなのですが。
他にも人や貨物を運ぶと言うより、そのキャパシティを生かした特殊用途の機体、例えば、半導体会社やエンジンメーカーのテストベッドとなった機体や、ロケット空中打上げ用の母機、消防機や空飛ぶ救急車、病院、天文台とかそう言った機体の紹介などもあります。
ただ個人的には、一番の魔改造機と言えばビジネスジェットですけどね。
亜音速戦闘機の主翼と尾翼を流用して、人を乗せる胴体を作った機体、例えば、ダッソー・ファルコンシリーズの初期の機体はミステール戦闘機の主尾翼を流用したものだし、リアジェットもスイスの自社開発戦闘機FFA P-16の主尾翼を流用したもの、更にF-86戦闘機の主尾翼を流用したその名もセイバーライナーと言う機体もありました。
流石に旅客機では無いので、余り掲載されていませんが…。
後、こうした改造機には意外に元日本機と言うのが多かったです。
日本の航空機整備は質が高いとよく言われていますが、中古機市場で元日本機は程度が良いので、彼方此方で利用されています。
ただ、国内線の機体は発着回数が多いのでスクラップになる事も多いのですが。
そんな感じで、知られざる飛行機の世界の一面を知ることが出来る本でした。
ギネス認定カメラマン・チャーリィ古庄が撮った! 世界の魔改造旅客機
- 作者: チャーリー古庄
- 出版社/メーカー: イカロス出版
- 発売日: 2022/09/09
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
日本ご当地パン大全 [読書]
今日は朝9時には出勤しないといけなかったので早起き。
昨日の興奮冷めやらぬところだったのですが、ぐっすり寝ることが出来ました。
何だかんだよく動いていましたからね。
予定通り起きる事が出来て、何とか会社に間に合う。
そして何時ものパッチ適用作業。
もう1つ、並行して行っていた作業があって、それがトラブると夜まで掛るんじゃ無いかなぁなんて思っていたのですが、意外にすんなり早く終わって、でも、微妙に横アリ2日目に間に合わなくて諦めました(ぉぃ。
まぁ、今日は生中継があったからそっちを見るつもりなのですが。
そして、運営の仕事は滅茶苦茶早く、昨日のライブ動画がもう上がってました。
超とき宣の楽曲については、追々書いていこうと思うので、今日はこんな所にしといてやるか。
さて、ここ数日通勤の行き帰りに読んでいた本。
最近は電車に乗ると疲れからか座ると同時に寝こけてしまい、中々読書量が増えません。
で、今回の本は『日本ご当地パン大全』(タツミムック/辰巳書房刊)。
ページが中々進まなかったのは、お腹が空いているときにこれを読むと空腹感が増すからと言うのもあったりする。
時々ここでも取り上げている『○○大全』シリーズの1冊です。
これも当たり外れがあるのですが、日本各地でその地域の人達に愛され、食べられているパンを紹介したもの。
各国でパンと言えば、大体その地域で獲れる粉を用いて生地を作り、その地域に根付いている酵母菌を用いて発酵させ、焼き上げたもので、精々がベリー系の果実を混ぜるくらいで、中に何も入っていないシンプルなものが多いです。
バゲットやクロワッサン、黒パンなんかが典型的なものですね。
一方、日本では海外から紹介されたパンをそのまま作るのもありますが、木村屋や中村屋の様に、生地の中に何かを挟み込むパンも多いです。
菓子パンや調理パンと呼ばれているものは、正に日本で独自に発展したものです。
こうしたパンは、あんパンやクリームパンが先ず生まれ、その後に各地に伝播する際に、その土地土地で様々な物を挟む様に変わっていきました。
パンは戦前、サラリーマンを中心に普及していたので、余り田舎には普及していきません。
とは言え、戦前の地方都市には喫茶店と言うコーヒーを飲ませる店が各地に出来ており、そこで供される料理にパンがあったりします。
当然ながら、爆発的に普及するのは、戦後、食糧難で米が入手出来ないときの代替策として奨励されてから。
米国から小麦の供与があったりして、パン作りが各地で行われる様になります。
特に学校給食にパンを選択する学校が多く、子供達にどんなパンを食べさせるか、と言うので、各社が工夫を凝らし、結果、学生だった子供達が大人になってその味を懐かしく思って、地域に根ざしていくと言う形のサイクルが出来て行きます。
これが「ご当地パン」と呼ばれるものです。
勿論、その中には徒花となったものも有りますし、今では作る人がいなくなったパンもあったりする。
しかし、その味を継承して新たに作り始めるパン屋もあったりして、愛される味は中々消滅しないようです。
ほうほうと読んでいたのですが、ふと思ったのが、阪神間にはご当地パンが無いのでは?という疑問。
欧米的な食習慣をいち早く採り入れたからなのか、菓子パンや調理パンに発展するよりも、フランスやドイツのパンや食パンをそのまま食べるケースが多い様な気がします。
海外のものをそのままなので、独自に発展する余地が無かったのでは無いだろうか。
だからか、阪神間のご当地パンは余り掲載されていません。
私も、神戸のご当地パンって何って聴かれても、「う~ん」ってなっちゃいますからね。
まあ実際には何かあって、この本の編集者が追い切れてないだけなのかも知れませんが。
追憶の私鉄車両の旅 [読書]
今日は医者をブッチして成田に出掛けるつもりで、5時40分に目を覚ましたのですが、何となく嫌な予感がして結局見送り。
ちょっとした悪い予感はよく当たるもので、こんな時に成田に出掛けたら何を言われるか判ったものでは有りません。
なので、来週に見送りです。
そしてリハビリに行きましたが、暖かくなったためか、じいさんばあさんが多く来ていて何時も以上に混雑し、終わってみたら昼前。
結局、パン屋、西友に行って昼飯とかを買って、後はのんべんだらりと過ごしました。
買物がてら『翔んで埼玉』を見に行こうか、或いは大宮のばっしょーリリイベに参加しようかとか色々思ったのですが、流石に自重です。
さて、今日はここ数日通勤の行き帰りに読んでいた本の紹介。
『追憶の私鉄車両の旅 懐かしの個性派車輌に想いを馳せる』(谷川一巳著/イカロスムック)
1970年代から2000年代まで、筆者が旅した先で撮影した写真と、旅の思い出を書いた本です。
高度経済成長期から鉄道が蔑ろにされ、どんどんどんどん廃線が増えて行く中の最後の光芒を放っていた時期の鉄道会社が多く取り上げられています。
1990年に出版された私鉄の本を持っていますが、そこからどれだけの鉄道が消え去ったか。
更に多くの地域交通の担い手は効率化の名の下、何等の支援も無くどんどん淘汰されています。
バスの本でも書きましたが、そのうち昔は多くの鉄道やバスが走っていたけど、彼方此方で分断されてしまい、山脈を越えるのにも苦労するのでは無いでしょうか。
それはさて置き、イカロス出版の本は玉石混淆で、今回の本は残念ながら石の方です。
谷川さんは、交通ライターとして有名な方ではありますが、今回は編集チェックが全然無かったからか、かなり事実誤認があって残念です。
特に日立電鉄と銚子電鉄に譲渡された営団地下鉄車輌を元丸ノ内線の車輌と記載しているのはどうかと思います。
ちょっと調べれば銀座線の車輌であることが判るのに、思い込みなのか何なのか、そして校正段階で編集者がちゃんと訂正すべきだったのでは無いかなぁと。
他にも?な記述が其処此処にあって、ページをめくるのが段々苦痛になっていきました。
取り敢ず、先日の『民族の~』でしょうもない本に耐性がついたから、最後まで読みましたが。
そう言った否定的な目で見てしまうと、纏め方が結構雑じゃないかなぁと言うのも目につきました。
既に引退している車輌の写真が掲載されているのは未だしも、水島臨海鉄道のように、キハ20系が未だ現役なのに、旧塗装の車両の写真を載っけてたり、青い森鉄道のように、まだ現役の車輌を掲載していたり何かちぐはぐな印象を持ちました。
そして、東の人だからか判らないですが、東の方はそれなりに独立した記述になっているのに、西になるにつれて2社を1つのページで紹介して、中には文章だけと言うものも。
大手私鉄は大体2ページに亘って紹介しているのに、阪急は能勢電と、阪神電鉄は1ページのみと言うのはちょっとどうなんだ、と思った。
全体として残念な鉄道本でした。