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地図とデータでみる都道府県都市町村の成り立ち [読書]

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昨日遅かったために今日はちゃんと起きられるか心配だったのですが、何とか起きる事が出来ました。
ただ、もう世の中はアフターコロナ状態で、満員電車になってしまっているので、今日は始発電車に乗っていったため、結構ギリギリでしたが。

そして、会社に出れば、あっちの会議に呼ばれ、こっちの会議に顔を出し、向こうの会議に呼び出され、そっちの会議に首を突っ込み…と席の温まる暇が無く、自分の人事評定すら書くことが出来ない始末です。

おまけに、上つ方が誰も想定していなかった話が出て来て、完全に責任逃れをした挙げ句、こっちにお鉢が回ってきたので尚更忙しくなりました。
明日もこれに忙殺されそうな予感です。

さて、ここ最近読んでいた本。

『地図とデータでみる都道府県都市町村の成り立ち』(齊藤忠光著/平凡社新書)
律令時代から現代に至るまで、各地域がどの様な変遷を経て現在の様になったのかを解き明かした本です。
元々、明治期になるまで、人々は「日本」と言う統一国家に属している意識を持っていませんでした。
どちらかと言えば、「日本」では無く、各々の土地に属していると言う意識を持っていて、それは特に「国」という概念が支配的でした。
要は、武蔵国とか摂津国と言った単位です。

江戸期には幕藩体制と言うのが成立したと言う事にはなっていますが、その地域を支配していた大名家、旗本は、その地に暮らしていた人々からすれば、地生えの有力者と言う意識では無く、オラが土地を支配して、時が経てば変遷する一時的な権力者でしかありません。
よって、自分達の「村」や「郷」の上位には「国」と言う概念しか無かったりします。
後、城下町には「村」の代わりに「町」と言う単位が置かれた程度です。

明治期に入っても、新政府は躍起になって中央集権体制を作るべく、従来からの大名家(=藩)を解体して「県」を設置すると共に、「村」や「郷」を束ねて大きな行政単位を作ろうとします。
早くからその動きに飲み込まれた「村」や「郷」などの小さな行政単位は、「大字」と言う単位で名前が残りましたがその実権は封じられます。

更にラジカルな単位として「大区」「小区」制度も設けられました。
ただ、この「大区」「小区」と言った行政単位は明確な思想を持って作られたものでは無かったため、徐々に崩壊してしまいます。

因みに、明治初期は暫く「国」と言う行政単位が一番大きなものでした。
但し律令国家のそれとは異なり、広大な「国」であった陸奥や出羽は分割されて陸奥国は陸奥、陸中、陸前、岩代、磐城に、出羽は羽前と羽後に分割しています。
この「国」意識は広く国民の間に浸透しており、道府県設置後も一般に売られていた地図は、暫く「国」単位で分割されていました。

その後、中央集権体制が成熟して行くにつれて、人々の間から「国」と言う意識が薄れて、道府県民、或いは市民、区民、町民、村民という概念が発展していきます。
行政単位も効率化を考えた結果、江戸期からの村の合併を進めて「郡」に集約したり、数ヶ村が合併して大きな「町」と言う単位にランクアップしたり、更には「市」となったりしていきました。

この本では、こうした大きな流れを見つつ、その底流にある思想を豊富な資料で解き明かしていきます。

また、特殊な自治体である蝦夷地から北海道への変遷、琉球から沖縄への変遷についても1章を割いて説明しているので、本土の流れと周辺の流れを理解するのが非常に分かりやすかったです。

記述的には明治が中心で、昭和と平成の大合併は駆け足という感じでしたが、紙幅の関係から仕方ありませんね。
ただ、平成の大合併の問題点はきちんと指摘しているのは流石だと思いました。

個人的には26府県に集約した1903年の幻の府県合併案が実現していれば、と思ったりもしましたが。
そうすれば、我々埼玉県民も東京都民として大手を振ることが出来たのですが(苦笑。
何はともあれ、中々面白い切り口の本でした。

地図とデータでみる都道府県と市町村の成り立ち (平凡社新書0940)

地図とデータでみる都道府県と市町村の成り立ち (平凡社新書0940)

  • 作者: 齊藤 忠光
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2020/04/17
  • メディア: Kindle版



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