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九死に一生の日 [日記]

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今日も出勤。
年度末に向けてドタバタと色々やっている御陰で、日常を忘れがちです。
昨日も酔っ払っていて、東日本大震災に触れることが出来ませんでした。

あれだけ大きな事件だったというのに、現金なものです。
まぁ、どこかの損保の広告ではありませんが、帽子を拾おうとふと屈んだ拍子に角材が上を通過したり、街灯に掴まったら、横を車が通り抜けたり、そんな感覚でしょうか。

考えてみたら、生まれてこの方、何度か生死の境をうまく回避してきていて、東日本大震災も生死の境を回避した一つな訳で。

物心ついてから数えてみたら、須磨の海岸でサーフィンの下敷きになって溺死しかけたのを皮切りに、小学生の頃に机の角で頭を打って、硬膜外出血をして頭と頭蓋骨の間に空間が出来てぶよぶよしていたのを親が見つけて慌てて外科医に連れて行かれたというのもありましたね。

阪神淡路大震災では家にいたら確実に本の下敷きになっていたし、初めてフレックスを使わなかったら丸ノ内線のサリン事件に巻き込まれて、中毒死していたでしょうし、新宿駅のトイレの青酸ガス放出未遂の時も、丁度その横を通っていたから、放出されていたら確実に死んでました。

東日本大震災の時も、主治医のところに行ってなければ、これまた家具か本の下敷きになっていた可能性もありますし、敗血症になったときだって、病院の床で倒れていなければ、そのままあの世に行っていたかも知れません。

生と死の境目というのはこんな感じで紙一重だなぁと思ったりします。
偶々家にいなかっただけ、あるいは偶々身体が重くて何時もの様に起きられなかった、偶々病院にいたと言った偶然が重なって生き延びているのだなぁと思ったりする。

阪神淡路大震災の時も、東日本大震災の時も、その後各地で起きた天変地異でも、生と死の間はほんの少しの違いでしかない訳で、そう考えると、良く今迄生き延びてこられたなぁと思います。
様々な災害や事件で、実際に納棺されていたのは自分だったかもしれない、そう考えると少しは身が引き締まります。

生きるのが辛いと言う風に感じたら、生きることを希望しても生きられなかった人のことを考えてみては如何でしょうか。
1日遅れましたが、こんな事を思いながら昨日を過ごしていました。
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