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最後の超弩級艦 [日記]

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今日も在宅勤務。
いつも家を出掛ける時間に出社扱いをしているので、定時がかなり早くなるはずなのですが、急に入った仕事の御陰で17時には終われず、終わってみたら19時半。
通勤の行き帰り時間が無い分、労働強化のような気がしなくも無い。

御飯を食べた後、ゆっくりしようと思ったのですが、とある施設から依頼していた文書が届いたので、その文書を使っての書類提出をせねばならず、結局ゆっくり出来ずに今に至ります。
一応、散歩がてら郵便ポストまで行ってきたのですが。

そうこうしている内に、ビックリのニュース。
服飾大手のレナウンが民事再生だそうですね。
中国資本の手に入ったのに、変に日本人のプライドからか抵抗した挙げ句、社長が更迭され、迷走を繰返しての沈没ですから仕方ないわけですが。
創業者が草葉の陰で泣いているでしょうに。

なので、今日はその会社の名前の元になった巡洋戦艦Renownの話でも書こうかと思ったのですが、その辺の資料を漁っているうちに、面白い記事が見つかったので。

南米のABC諸国と言えば、アルゼンチン、ブラジル、チリの3ヶ国です。
頭文字を取ってABCだそうで。
何れも、南米大陸の中で上位の国力を持つ国です。

国の規模が似たようなものであれば、当然のことながら張り合いをする訳で。
軍備についても御多分に漏れません。

19世紀後半の原料輸出国としての羽振りの良さを背景に、この3国は、特に海軍について軍備競争を繰り広げます。
1860年代から1870年代に掛けては海防戦艦を競い、1880年代から1890年代になると防護巡洋艦、そして装甲巡洋艦の建艦を競いました。

例えば、アルゼンチンがGaribaldi級の装甲巡洋艦をイタリアで一気に4隻建造し、更に2隻を建造していましたが(それが後に日本海軍に売却されて日進、春日になったのですが)、チリはEsmeralda(先代のEsmeraldaは1894年に日本海軍に売却されて和泉になりました)、O'Higginsを英国で建造して追随します。

装甲巡洋艦の建造競争で出遅れたブラジルは、20世紀に入ってエポックメーキングとなる弩級艦を英国で建造することになりました。
それがMinas GeraisとSão Pauloの2隻です。

一気に建艦競争でトップに躍り出たブラジルに対し、黙っていなかったのがアルゼンチンとチリ。
アルゼンチンはブラジルのものより大型の戦艦を米国に発注し、RivadaviaとMorenoを建造しました。

アルゼンチンの戦艦は、ブラジルと同じ6基の12インチ砲塔を有していますが、ブラジルの戦艦がドレッドノートと同じく前後に2基、側面に1基ずつという配置だったのに対し、6基の砲塔すべてが中心線上に配置され、片舷で12門すべてが指向できる構造になっています。
つまり、片舷の砲力が2門分ブラジルよりも高かった訳です。

チリはこうなると一気に劣勢となります。
しかし、先進各国でも建艦競争は続いており、12インチ砲を凌駕する砲が開発されていました。
そこで、チリが英国に発注した戦艦2隻は、Iron Duke級の準同型艦としてアルゼンチンやブラジルの戦艦を上回る14インチ砲を10門搭載する超弩級艦となり、Almirante LatorreとAlmirante Cochraneと名付けられ、1913年11月に一応完成しましたが、艤装完了が1915年となります。

1915年と言えば、第1次世界大戦の真っ只中。
各国が先進国に発注した艦は悉く接収されてしまいました。
チリの2隻は艤装中の1914年8月に英国から穏やかな売却の打診を受け、9月に接収に同意しました。
その後完成を急ぎ、Almirante LatorreはCanadaと命名されて1915年9月に完成します。

当時の英国に於いても超弩級艦は少なく、Grand Fleetの第4戦艦隊の有力艦としてユトランド海戦に臨み、無傷で生還しています。
因みに、Almirante Cochraneは船体のみ完成して放置され、その後、1917年に工事を再開して空母Eagleとして完成しました。

第1次世界大戦が終了すると相当数の戦艦は無用の長物となり、一気に廃艦となりました。
Canadaは再びチリに返還され、Almirante Latorreとしてチリ海軍のフラッグシップとして活動しました。
残念ながら、相当に改造されてしまったEagleの返還は叶いませんでした。

これに対抗してブラジルは英国にRio de Janeiroと言う超弩級艦を発注しましたが、こちらは経済が傾いて戦艦どころでは無くなり、進水した戦艦をオスマン・トルコに売り払います。
オスマン・トルコはこの艦の工事を続け、超弩級艦Sultan Osman Iとして完成させ、乗員も乗り込んで母国に回航する寸前に漕ぎ着けたのですが、英国に接収され、Agincourtと命名されました。

第1次世界大戦後、英国はチリの戦艦同様にブラジルに対し100万ポンドで売却を持ちかけたのですが、ブラジルは14インチ砲を搭載する超弩級艦として計画したのに、英国が完成させたのは手持ちの12インチ砲を活用した弩級艦だったため、ブラジルは拒否して商談は物別れに終わりました。

余談ながら、第1次世界大戦後は巡洋艦の建艦競争が繰り広げられ、第2次世界大戦後は3ヶ国とも空母の保有に躍起となっていたりします。
チリは脱落しましたが、その後、新たにラテンアメリカ世界の盟主となった米国が、この3ヶ国をなだめすかすかのようにBrooklyn級巡洋艦を2隻ずつ分け与えたりした訳です。

更に余談ですが、第2次世界大戦後、流石に戦艦は無用の長物と化してしまいました。
老朽化も進んでいましたが、新たなフラッグシップが導入されるまで、国の顔であり続け、1950年代に相次いで除籍されました。
そして、アルゼンチンとチリの戦艦の最期の地となったのが実は日本です。

RivadaviaとMorenoは1956年8月2日にスクラップとして売られると、Rivadaviaはジェノバで解体されましたが、Morenoの方は遙々日本に曳航され、徳山までやって来て解体されました。
また、チリのAlmirante Latorreは実に1959年まで生き長らえ、これまた曳航されて横須賀にやって来て解体されています。

当時は、三笠が記念艦として整備されている最中であり、復元完成しつつある三笠の沖合で、ジェットランド海戦最後の生き残りが解体されつつあった訳です。

更についでにいえば、ブラジルの戦艦2隻は1950年、1951年に除籍され、英国で解体されたのですが、1隻が途中で曳航索が切れ、一時行方不明になって大騒ぎになったそうです。
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