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節操なき空軍 [飛行機]

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今日は上つ方の面接。
まぁ、一々ご尤もでございます。
てな訳で、ひたすら嵐の過ぎるのを待ち、後は今季の案件その2の資料を作って…ただ、レビューをする暇が無くてどうしようと思っていたら、定時後に暇そうにしていたので飛び込みで上つ方とレビュー。
その前の会議が結構荒れたので、結構突っ込みがありそうな気がしたのですが、2、3の指摘だけですんなり通ってしまいました。
何時もこんな感じなら良いのですがね。

さて、昨日の続き。

1944年、フランスが解放されたとき、本土は既に全土占領されていたため、空軍機と呼べるものは残っていませんでした。
なので、この頃の機体は、連合国からの供与機が中心です。

戦闘機としては、Supermarine Spitfireが8個飛行隊、Republic P-47が6個飛行隊、Bell P-39が3個飛行隊、そして、ソ連で戦闘した部隊が持ち帰ったYakovlev Yak-3が1個飛行隊。
軽爆撃機は、Douglas A-24が1個飛行隊、偵察機はLockheed F-5とNorth AmericanF-6が各1個飛行隊という陣容。
その他、海軍の空母搭載機はSupermarine SeafireとDouglas SBDと言う英米混合の陣容でした。

爆撃機はHandley-Page Halifaxが2個飛行隊、Martin B-26が6個飛行隊、Douglas BostonとNorth American B-25の混成が1個飛行隊、そして、ドイツ軍から接収したJunkers Ju-88Aが1個飛行隊、フランス崩壊前まで使っていたMartin 167やDouglas DB-7の生き残りが1個飛行隊と言う陣容。
海軍の哨戒機部隊は、Lockheed Venturaが1個飛行隊、Vickers Wellingtonが1個飛行隊、Short Sunderlandが1個飛行隊、ドイツ軍から接収したDornier Do.24が1個飛行隊という陣容。

こうして曲がりなりにも陣容を整えたフランス軍でしたが、一頃の航空先進国の面影は無く、国産機が第1線機として復活するには暫く掛かりました。
勿論、フランス崩壊以来、少しずつ航空機の開発は進めてきましたが、戦闘機のDewoitineは対独協力企業として指弾されてしまい、まともに開発が出来なくなりました。

そこで、今までのギャップを埋めるべく利用されたのが、ドイツ軍が自国の空軍機を増強するためにフランス各地で国産化を進めた機体です。

最初に生産を立ち上げたのは、AAB(Atliers Aeronautiques De Boulogne)で生産されていたJu-88です。
Ju-88A-4が16機、まず生産され、後に6機が追加された後、合計83機がAAB-1の名称で1945年9月まで生産され、主にGB 1/31 Aunisにて蛇の目を付けて用いられました。
この中には8機の雷撃機型Ju-88A-4LT、戦闘機型のJu-88C/R、それに夜間戦闘機型のJu-88Gが3機含まれています。

1941年、FalmanはHeinkelの指定工場として利用されることになります。
この工場では、Heinkelの新型爆撃機であるHe-177の開発や生産で手一杯のため、その発展型の開発を任されることになりました。
元々He-177が双子エンジンを搭載した機体で、稼働率が低かったため、その欠点を解消すべく、ターボ過給器付のDB603A-2を搭載したオーソドックスな4発機に改造されることになったのですが、フランスでは開発をわざと遅らせ、結局試作機が完成したのはフランス解放後になってからでした。
Falmanは戦後、AAS(Atliers Aeronautiques de Suresnes)となり、名称もドイツ軍名称からAAS.01と改められます。
資材不足の中、部品を捻出して試作機が2機作られ、1機は普通の爆撃機型のAAS.01Aとして、もう1機は各種テストベッド用の母機、AAS.02Bとして完成し、1945年12月30日に初飛行します。

後者は、胴体上部に櫓を組み、ジェット機の習作としてSNCASOで製作されたSO.M-1を空中で分離する母機として用いられたほか、ジェット爆撃機として開発中のSO.4000計画で用いられるパルスジェットエンジンの空中試験母機としても用いられています。
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