SSブログ

注文流れ [日記]

UAE_B777-300ER_ECA_0001.jpg

今日は在宅勤務。
結構蒸し暑かったです。
途中でフレックスしようかとも思ったのですが、明日は楽しいライブなので、それに備えてフレックスは取っておくことにしました。

と言うか、明日ライブなのに、まだニューアルバムを聴き込んでいないので、事前学習が足りない状態だったりします。

そんな訳で、ギリシャ海軍の話を続ける。
順番からすると、戦艦に準じる装甲巡洋艦の話になるのですが、それはちょっと脇に置いておいて、今日は小型巡洋艦にシフトする。

日清戦争が終わると、清国の海軍はかなりのダメージを被ります。
大型艦艇は日本海軍に鹵獲され、旧式の種々雑多な艦しか残っていない有様です。
1898年にやっと5隻の小型巡洋艦が引き渡されましたが、後は少数の砲艦と駆逐艦が引き渡されたくらいで、戦前の水準に戻っていません。

1908年、海軍の再整備がやっと始まり、北洋艦隊、南洋艦隊、中部艦隊の3つの艦隊に、それぞれ14,000トン級の戦艦を1隻、一等巡洋艦を1~2隻、二等巡洋艦を4~5隻、三等巡洋艦を5~6隻、それに通報艦や駆逐艦などの小型艦艇を6隻ずつ整備する事になります。
しかし、その野心的な計画は1910年末には早くも修正され、小計画として4箇年計画を立てて3,000トン級の小型練習巡洋艦3隻、500トン級の砲艦8隻、駆逐艦1隻と2,000トン級の輸送艦1隻を1,950万両(約300万ポンド)で発注、大計画は7箇年計画で16,000トン級の戦艦を8隻、20隻の巡洋艦、30隻の駆逐艦や魚雷艇を1.6億両(約5,300万ポンド)で発注するという壮大なものに変更されます。

先ず、4箇年計画の小型練習巡洋艦は、英国のArmstrong-WhitworthとVickersに発注され、3隻目は米国のNew Yorkに発注されました。
当然、これらは設計図上は同型艦なのですが、機関はAW発注艦がYarrowの水缶灌、Vickers発注艦がWhite Fosterの水缶灌、米国発注艦はThornycraftの試作灌を用いており、砲兵装も、Vickersは自社製、残りの2隻はArmstrong社製と言うチグハグさです。

そして、肇和、應瑞、飛鴻と名付けられた3隻ですが、飛鴻が竣工する前に辛亥革命が起き、財政に余裕が無い中華民国政府は、1913年11月に完成した飛鴻をキャンセルし、売却する事にしました。
1914年、様々な変遷を経てギリシャが買い取り、Helleと改名してその海軍に編入する事になります。

幾ら注文流れと言っても、そんなに酷い性能では無く、計画速度18ktsだったのに公試では21ktsが出たそうですから、優秀な艦だったのでしょう。
武装も6インチのArmstrong砲が2門、4インチ砲が4門とそこそこ強力でした。

この為、1917年にギリシャが連合国側について参戦すると、フランス地中海艦隊に編入され、各地を転戦します。

戦後も主力艦の1隻として活動していましたが、軽巡洋艦とか重巡洋艦とかが出る前に設計された旧式艦でしたから、1926~28年にかけて流石に巡洋艦としての任務は果たせなくなり、フランスのFCMで改造され、敷設巡洋艦となりました。
船尾楼やその周辺の装置は撤去され、機関は石炭と重油の混焼から重油専焼に換装されて速度は20ktsを維持、上構部は一新され、三脚マストになり、煙突も近代化され、射撃指揮装置も変更されました。

武装も6インチ砲は3門に増え、副砲は3インチ砲2門、高角砲として40mm砲が2門取り付けられ、110基の機雷を敷設できるようになります。

しかし、第2次世界大戦でこの艦が活躍することはありませんでした。
1940年8月15日、宣戦布告が為される前に、イタリア海軍の潜水艦Delfinoによって、エーゲ海諸島で碇泊中に魚雷攻撃を受け、撃沈されてしまったからです。
まぁ、中国の同型艦も残念な最後を遂げたものばかりだったので、このクラスの艦は、余り運には恵まれなかったのかも知れません。
nice!(11) 
共通テーマ:日記・雑感