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梁山泊とモーツァルト [音楽]

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ここんとこ毎日出社で、何時も遅くまで仕事をしている状態。
これでトンネルの出口が見えないとあれですが、トンネルの出口は辛うじて見えているからまだマシな方です。

ところで、昨晩寝しなにニュースサイトを見たら、キダ・タロー先生の訃報が載っていて、思わず「ええっ」と声を上げてしまいました。
93歳の大往生だったそうで、しかも3月末に体調を崩して1ヶ月半ほど療養してお亡くなりになられたと言う事で、ピンピンコロリを体現した方だなぁと思ったりする。

「浪速のモーツァルト」と言われて、我々が物心ついたときから、特に大抵のテレビCM曲はキダ・タロー先生の作品で、我々の世代は正にそんな曲で英才教育を受けたようなものです。

「有馬、兵衛の向陽閣へ」とか「あ~らよ、出前一丁」とか「と~れとれピ~ッチピッチカニ料理」とか、考えてみたら丁度キダ・タロー先生が作曲を手がけたのは、民間放送が興隆してきた頃で、CM曲と言うのが一種のブルーオーシャンだったのでは無いでしょうか。

並み居る在京の作曲家は、テレビCMなんぞと一顧だにしなかったのに対し、キダ・タロー先生は果敢にその世界に飛び込んでヒット曲を連発したのかな、と。
今はタイアップ曲とか言ってますが、長くても30秒、短いと15秒程度の秒数に商品名やブランドを織り込んで、キャッチーなメロディーを付け、人々の記憶に残すなんて力量は並の作曲家には出来ないのでは無いかと思います。

そう言う意味では、希有な方と言っても過言では無いでしょうね。

因みに、キダ・タロー先生は関学に在籍していました。
学生バンドでキャバレー巡りをしていたそうですが、そのバンドにいたのが藤岡琢也、キャバレーで歌うNo.1ホステスに曲を作ったのですが、そのホステスが正司歌江、関学大に進んだら同級生にいたのが高島忠夫と、蒼々たるメンバーがいたそうです。

とは言え、当時の関学って、関西のボンボンが進学するような学校で、今のように関関同立なんて言うくらい位の高い学校ではありませんでした。
その分、自由闊達で梁山泊的な雰囲気があった様で、今は凄い有名人達が集っていた訳です。

かくいううちの親父も関学で学生時代を過ごしていました。
キダ・タロー先生よりも数年後でしたが、良く藤岡琢也さんとかの話はしてましたっけ。
何故かキダ・タロー先生のことは話していませんでしたが。

最近では百田夏菜子さんが、キダ・タロー先生のことを「浪速の重鎮」では無く、「浪速の珍獣」と呼んで話題になりましたね。
それでも、翌年のファン感で曲を贈って下さったのでは無かったかな。
その曲の披露は1回こっきりでしたが(笑。

例え若者でも礼儀正しいと、笑って許す鷹揚さもありました。
その辺はボンボンです。
ただ、先生の髪の毛に触れると関西では仕事を干されるとか言う伝説はありましたが(ぉ。

これでまた一人、個性的な昭和のタレントがいなくなりました。
合掌
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