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成田詣で−夏?ダイヤ(その2) [飛行機]

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今日は上つ方の歓送迎会。
流石に、新年度一発目で入院してしまったので、ここで参加を断ってしまっては更に悪印象が出て来ないとも限らない為、宴会には参加することにしました。
言うても、酒はもとより、油物を回避したり揚げ物の衣は取り外してヘルシーな宴会になりましたが。
部署全体で宴会をしたのはほぼ1年以上ぶりです。
先々代の上つ方はそう言ったのが好きだったのですが、先代の上つ方は、組織がギクシャクしていてそんな事をやる余裕が無かったですし。

さて、先月末の釣果の整理。
入院中に、ちょこちょこやっていたのが少し溜ったのでここらで吐きだし。

大韓航空のB.777-300。
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冬ダイヤではB.747-8Iが投入されていましたが、昨今の日韓関係の落ち込みがあるのか、別の要因なのか、シップチェンジで機体が縮小されました。
朝便も、B.777-200ERからA.330-200ないし300の投入が続いています。
6年ぶりの撮影。

中国東方航空のビジネスジェット部門が運航するG.550。
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此の日は小型機の上がりが結構早かったです。
初撮りの機体。

香港航空のA.320-200。
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昼便はA.320にシップチェンジ。
ほぼ5年ぶりの撮影。

Iberia Airlines of SpainのA.330-200MTOW。
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初撮りの機体。

FedExのB.777F。
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離陸は3年ぶりの撮影。

Jin AirのB.737-800。
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新造機で、離陸は初撮り。

UPSのB.767-300F(ER)。
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こちらサイドは6年ぶりの撮影。

FedExのMD-11F。
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MD-11の初号機で後に貨物型に改修。
こちらサイドは3年ぶりの撮影。

T'WayのB.737-800。
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離陸は3年ぶりの撮影。

ANAのB.787-9。
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2年ぶりの撮影。

AlitaliaのB.777-200ER。
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こちらサイドは6年ぶりの撮影。

中国南方航空のA.321-200。
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離陸は初撮り。

AeroflotのB.777-300ER。
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こちらサイドは初撮り。

中国東方航空のA.321-200。
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2年ぶりの撮影。

再び中国南方航空のA.321-200。
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こちらサイド転がりは3年ぶりの撮影。

UnitedのB.777-200ER。
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これまた3年ぶりの撮影。

中国国際航空のA.330-200。
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これも3年ぶりの撮影。

ANAのA.320-200neo。
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こちらサイド転がりは初撮り。

これもUnitedのB.777-200ER。
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こちらサイド転がりは6年ぶりの撮影。

Cebu PacificのA.320-200。
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Tigerair PhilippineからCebgoを経て親会社に復帰した機体で3年ぶりの撮影。

取り敢ず、今日はここまで。
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ホンダジェット [読書]

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今日こそ早く帰ろうと思ったのに、他部門でアクシデントが起きて部長の呼び出しを受けた御陰で21時ですよ。
全く、病院を出て僅か数日しか経っていないというのに。

今日も入院中に読んでいた本の紹介。
『ホンダジェット 開発リーダーが語る30年の全軌跡』(前間孝則著/新潮文庫刊)

一言で言えば、自動車会社であるホンダが、自動車の次の時代に於ける新たなモビリティとして開発したビジネスジェット機の開発の軌跡です。

それは苦難の連続で(まぁ、異業種からいきなり畑違いの分野に入っても一朝一夕に事がなる訳ではありませんし、しかも今回はエンジンと機体を同時開発すると言う無謀な挑戦でしたし)、1986年から足かけ30年を掛けてやっとスタートラインについたと言っても過言ではありません。
それはホンダと言う一種のベンチャー気質を持つ会社だったからここまで到達したと思います。
また場所も大きかったでしょう。
事業の立ち上げ自体は日本でしたが、それを醸成したのは米国と言う航空先進国でした。
これが、日本でずっと続けていたら、社内の声(それも多くは反対の声)が大きく、早々に挫折していた可能性があります。

そう言う意味では、今、MRJが幾度となくローンチを延期して飛行試験の部分は米国で行っているというのも正解なのかも知れません。
米国で行うのは失敗を糧にする事が出来るからです。
日本の場合は、「災害ゼロ」とか「障害ゼロ」とか言うスローガンが好きで、失敗を嫌う風潮があります。
常に完璧を求められると言うのも製品の熟成にはマイナスに振れます。
試作段階で、どれだけの失敗が出せるかと言うのが試験の要諦ですが、そこで失敗を許容しない今の日本の社会では、良いものが出来るとは思えません。

ホンダ製航空機の最初の本格的な試作機は、極めてラジカルな形をしていました。
これは航空機部門全体を任された技師の意向によるものでした。
ただ、この技師は残念なことにエンジンの専門家であって機体の専門家ではありませんでした。
よって、MH-02と言われた機体は、「空飛ぶシビック」をコンセプトに設計されたもので、低い姿勢の複合材製の胴体に、胴体の居住性を殆ど考えない同じく複合材製の主翼を肩翼式に取り付け、ATPと呼ばれるターボプロップエンジンを胴体後部に付けて二重反転プロペラを回すという代物です。

当然実用性には程遠く、正に習作の域を出ません。
しかも、ATPは燃費には優れている反面、時代遅れの面があり、実用化も困難を極めました。
この調子だとプロジェクト全体が空中分解しかねないと考えた機体設計の責任者と、エンジン設計の責任者が両方ともその主任技師に対し反旗を翻します。
この辺は、ホンダのお家芸とも言えるかも知れません。
本田宗一郎が、空冷でF1エンジンを作れ、また乗用車は総て空冷だと言う無謀な命令を出したのに対し、部下の技師が密かに水冷エンジンを開発し、シビックはそれで乗り切ったという逸話がありましたし。

結局、MH-02は機体はその侭に、エンジンはオーソドックスなターボファンエンジンを開発することにしたのですが、結果的にそれが間に合わず、既存のエンジンを購入して間に合わせた為、余り性能が良くありませんでした。

それを反省点に、彼等は次の機体を製作します。
セグメントとしては、10人未満が乗る事が出来る超小型ビジネスジェット機です。
一種のブルーオーシャン戦略と言う事で、かなりニッチな部類です。
ただ、CessnaやEmbraerの様な大メーカーの寡占状態の所に割って入るので、見方によっては無謀な挑戦にも見えます。
なので、経営陣はかなり苦しい決断を迫られました。

しかし、こうした既存の機体は基本設計が1960〜70年代に確立したものを十年一日の如く作っているので新味がありません。
それに対し、ホンダジェット(の前身)は、見た目も主翼上にエンジンを搭載するなど、如何にも新しい設計思想で作られている様に見えます。
こうして、何時しかホンダジェットへの期待は高まり、幾度もの危機を乗り越えて、製品化に漕ぎ着けました。
そして、今やこのセグメントのビジネスジェットではCessnaのそれを抜いて、首位に躍り出ています。

この本では、こうした機体やエンジン開発の経緯を機体、エンジンの開発リーダー、それに経営陣へのインタビューを通じて丁寧に再構築していて、航空機生産ビジネスとはどんな形で推移していくのかと言う読者の興味に応える様になっています。

一方で、前間さんが従来から主張している様に、「日本での航空機産業による物作りは幻想である」と言う面も強調されています。
ホンダジェットの対局にある既存の航空機メーカーは、「国産」旅客機と言う事で、Boeingの機体作り、また戦闘機などの生産を行っていますが、結局は、主導権を握ることが出来ずに下請けの地位にしがみついているだけだ、IHIでも、エンジン生産を行っていますが、これも開発の主導権は欧州メーカーに握られて、結局は下請け状態になっている、それは裾野の部品生産でも同じだ、と言う訳です。

例えば型式証明を貰うと言う点においても、日本の型式証明は世界に通用しません。
米国のFAAや欧州の型式証明機関(ど忘れ)の何れかを得ないと、世界では飛行すら出来ないのです。
その証明を得るだけでも膨大な書類(一説にはその飛行機の重量と同じくらいの書類)を用意しないと駄目なのですが、そうした証明を得る為のノウハウは全く日本にはありませんでした。
MRJを開発している三菱ですら、型式証明審査がこんなに大変だとは思わなかったと愚痴をこぼしているほどです。

ホンダも、結局は機体とエンジンの両方で型式証明を取る事は断念し、エンジンについてはGEと提携して彼の会社のノウハウを利用させて貰っています。

大企業ですら行なのですから、中小企業は尚更悲惨な状態と言えます。

物語の後半で、住友精密工業が出て来ます。
日本では航空機の脚構造を手がけるかなり大手の会社ではありますが、この会社もご多分に漏れず、一次コンストラクターという契約を得ることが出来ず、大手の下請けに甘んじています。
今回のホンダジェットで初めて、脚部分の一次コンストラクターという地位を手に入れました。
日本の航空機産業を発展させるには、こうした部分の梃入れも必要です。

更に言うと、今の日本では、「日本スゴイ」の余韻に浸っている様に思えます。
ともすれば、国産技術、ノウハウが強調されすぎていますが、世界中でサプライチェーンが展開されている今の世の中、純国産なんてのはナンセンスです。
特に航空機業界については如実にそれが表れます。
ハード面だけで無く、ソフト面(使いこなす力も含め)が伴って初めて技術として競争力が出て来るのですが、国産に拘り過ぎて競争力を削いでいる様に思えます。

どんな製品でもそうですが、合理性を持たせないと競争力のある製品は生まれないのではないだろうか。
この本を読んで、一番それを感じました。

因みに同時期にもう1冊、『ホンダジェット誕生物語 経験ゼロから世界一へ (日経ビジネス人文庫)』という本も読んでいたのですが、概ね前間さんの本とほぼ同じストーリーになっています。
この辺、一次資料が全く同じなのか、文章表現も同じ部分も多かったのでちょっと気になるところです。

ホンダジェット: 開発リーダーが語る30年の全軌跡 (新潮文庫)
新潮社
2018-12-22
前間 孝則

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ホンダジェット誕生物語 経験ゼロから世界一へ (日経ビジネス人文庫)
日本経済新聞出版社
杉本 貴司

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日本兵捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた [読書]

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4月頭から休んでいたので流石に骨休めをする訳に行かず、今日から会社。
とは言え、立っていくのは未だしんどいので、始発電車で出掛けていったり。
しかし、仕事が終わらず、帰ってきたら21時頃と言うね。
…疲れた。

さて、今日はこの入院中に読んでいた本について。
日曜までパソコンを持って行かなかったので、熱が下がるとすることも無く、かと言って、昼のテレビはつまらんので、持って行った本を1日半分は読むことにしていました。

その中で最初に読んでいたのが通勤中に既に手を付けていた、『日本兵捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた』(嶌信彦著/角川書店刊)と言う本。

その昔(と言うか今もあるのかも知れませんが、最近日曜夕方は起きている事が少ないので)、TBS系列で「報道特集」という番組がありました。
その中で、この建物を取り上げていたのが印象に残っていて、ついつい買ってしまったのがこの本です。

満洲にいた兵士達は、一部の目ざとい将校を除き、8月9日に侵攻してきたソ連軍に蹴散らされ、武装解除されてしまいます。
そして、ソ連は彼等を国土復興のための労働力として、各地に送り込み、かなり長い間彼の地で働かせました。
シベリアの凍土地域に送り込まれた兵士達は劣悪な労働環境と食事、病気の蔓延などで多くの死者を出します。
しかし、手に職のある兵士は、遠くの地に送り込まれたものの、ある程度人間並みの扱いを受けることが出来ています。

UzbekistanのTashkentに送り込まれたのも、陸軍航空隊の航空機整備を任務としていた技術者集団でした。
彼等は、鉄道や森林伐採の代わりに、故郷から遠く離れた中央アジアのこの場所で、ソ連に4箇所しか存在しないボリショイ劇場を建設する為に呼ばれたものです。

彼等は、ドイツやイタリアなどの捕虜と共に作業に当たりますが、日本側の捕虜収容所の指揮官が出来た人でした。
彼は如何にこの逆境下で兵士達を統率し、全員を無事に返すかと言う事に腐心しています。
例えば、食事の割当について、ノルマが未達の者は食事が減らされましたが、それぞれの仕事の状況でノルマが達成出来ないこともあります。
普通なら、これで組織が崩壊してもおかしくありません。
そこを彼は、ノルマを達成して多く食事が与えられた兵士が、「一度与えられた食事を、自発的に」食事が減らされた兵士に与えると言う方法を編み出します。

当然、ソ連側から掣肘を食らいそうになりますが、ソ連のやり方を観察して、ちゃんとした理論武装をしての対応をしたのです。
幸い、ソ連側の担当者にも恵まれて、理解を得ることが出来、以後、組織が崩壊すること無く、最盛期500名近くいた日本人捕虜を統率することになります。

勿論、出る杭は打たれるの例え通り、周辺収容所で民主運動が盛んになった時、余りにこうした運動が低調だったことから、ソ連の政治将校から目を付けられて、所長自ら技術者では無く秘密諜報員ではないかと言う疑いを掛けられたこともあります。
此の時も、紙と鉛筆を借りて一式戦闘機の脚構造と油圧構造図なんかを書いて難を逃れたそうです。

劇場の建設は、元々彼等が技術者集団であったことから順調に進んでいきます。
他の枢軸国の捕虜は、余りこうした旧敵国の建設作業は熱心に行いませんでしたが、日本の兵士達は後世にも残る建造物を建設するのだから、手抜きをするのは日本人としての矜恃に関わる、として、建設段階はもとより、仕上げも完璧に行い、ソ連側の将校達からも一目置かれる集団になっていました。

日本側の捕虜収容所の指揮官となった人はアイデアマンで、将校はもとより、一般の兵士達、更にはソ連の将校や兵士、一緒に働いたウズベキスタン人からも慕われました。
御陰で、他の収容所よりも士気は高く、先に書いた様に民主化運動と言う名のオルグも低調でした。

こうして2年ほどの労働で地図に残る仕事、ナボイ劇場は完成しました。
正式な完成披露には招待されませんでしたが、その落成披露にはこの収容所、そして、その後別の収容所に散っていった仲間、ソ連側の担当者、ウズベキスタンの技術者達を一堂に会しての式典が開催されています。

それから暫くして、彼等の大多数はダモイとなり、舞鶴に向います。
この指揮官は日本に戻ってからも、みんながいずれ集まって久闊を叙する事が出来る様に、一所懸命、彼等の氏名、住所を暗記しました。
紙に書いているとスパイと間違われてダモイが取消される可能性があったからです。
こうして、舞鶴に着くと彼は旅館に閉じ籠もって、暗記した収容者たちの情報を紙に起こしたと言います。

因みにこの指揮官の下で仕事をした兵士達は全員が無事帰れたかと言えば、残念ながら抑留中に鉄道事故と転落事故で2名の兵士が斃れています。

それから時が経てTashkentの建物が8割以上破壊された1966年の直下型地震の時です。
ウズベキスタン人やロシア人と共にこの建物を作っていた日本兵達は、親しくなるにつれて色々と彼等と言葉を交わす様になり、日本は地震国であると言うこと、しかし、この建物はしっかり作ったので少々の地震が起きても崩壊しない自信があると云っていたそうです。
そして、1966年4月に起きたマグニチュード5.2の地震(これでも当時は世界最大クラスの地震だった)で殆どの建物が壊れた中、人々は誰からとも無く「ナボイ劇場の公園に逃げろ」と言い合って、中心部の公園に向います。
そこで彼等が見たのは、大地震にも拘わらず地震前と同じ場所に変わらずすっくと立っているナボイ劇場の姿でした。

ソ連の体制下にも関わらず、この逸話は何時しか中央アジアの人々に伝播していき、親日感情を醸成する切っ掛けになったと言います。

この建物の建築の歴史を紐解き、それが日本人によって建設された事実が報道特集で放映された時、偶々、そのオリジナルを見ていました。
その番組は大反響を呼びましたが、諸事情により再放送が為されませんでした。
この本を読んだ時、何処かで聞いた話だなぁと思ったのですが、よく考えるとこの放送が切っ掛けで書籍化が進んだのだなぁ、と。

そして、第2次世界大戦後の大混乱の最中、こんな(と言ったら語弊があるかもですが)僻地で、丁寧な仕事をして後世に建造物を残した兵士達の物語は、正に小説より奇なり珍なり摩訶不思議なりと言ったら言い過ぎでしょうか。

何となく、あと数年くらいしたらドラマ化されそうですけどね。

日本兵捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた
KADOKAWA/角川書店
2015-09-30
嶌 信彦

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緊急入院、なんどめー? [健康]

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先週から1週間の御無沙汰です。
HP0、MP0の状態に陥って、ビタミン剤を飲んで寝たのに翌朝一向に良くならず、朝起きたら38.6度の高熱。
「これは?」と思って、病院に電話したら、「兎に角直ぐに来なさい」と言う指示。
取るものも取りあえず出掛けたのですが、熱で完全に判断力が鈍っていましたね。
出来れば、数日分の着替えと健康保険証限度額適用認定証と洗面道具と薬を持って行くべきだったのですが、全然頭が回っておらず、数冊の本と健康保険証だけを持っていった訳で。

丁度此の日は主治医の先生が診察の受け持ちだったので、内科の受付に行くと、先ず採血して下さいと言う事で、何時もの採血場では無く、内科処置室で採血。
終わって、その先生の診察現場に座って朦朧としていると、1時間ほどで順番が回ってきました。
採血の結果を見て、「直ぐに入院した方がいいですが、どうします?」。

どうもこうもありません。
ほぼ1本で帰れるとは言え、今更家に戻る気力が無く、そのまま入院することに。
例によって例の如く、内科処置室に逆戻りで術衣に着替えさせられ、待つ事暫しで内視鏡室に運ばれました。

そして、お定まりの内視鏡手術。
前に塩ビのステントを入れたのが胆管が肝臓内部で分れている分岐点から下でした。
これで片方は流れたのですが、もう片方の方が上手く流れずに滞留してしまい、胆汁が菌に汚染されて高熱を発していたと言う事だった様です。
今回は、分岐点から上に入れる様な形でステントを2本挿入。
と言う事で、都合2本が胆管に入って胆汁が流れる様になりました。

初日は殆ど何も出来ずにそのまま病室に案内され、それから入院生活。
何が苦しいって、「飲食止め」、つまり水も飲んではいけません。
体重は順調に1kgずつ減っていくし…まぁダイエットするにはこの方法が確実でしょうが。

2日目も飲食止めが続きました。
此の日に救援物資が来たのでやっと術衣からは解放されて、寝間着とトレーナーで過ごすことが出来たのですが、そのトレーナーは古いもので、ゴムが緩々になっている代物。
しょうがないので片手をポケットに突っ込んでずり落ちない様にするのに必死でした。
それに薬が何時もの半分しか無く、やっぱりきちんと入院セットを作っておかないといけないなぁと思ったりしています。

3日目、予定ではこの日の昼には食事解禁だったのですが、肝臓の数値が良くないのと、炎症が治まっていない数値が血液検査の結果出ていたので、食事はもう1日見送り。
また難行苦行の始まりです。
流石に、少量であれば水飲んでもOKと言う事になったので、売店まで降りて、水とお茶を買ってきました。
ついでに持ってきたものの中身が無かった洗顔フォームも…。

4日目に漸くご飯が出ました。
流石に全粥ですが、前回よりは美味しいと感じたのは何故なんでしょうか。
無脂肪牛乳だとかその手の奴も、前回ほど拙いとは感じませんでしたね。
此の日で抗生剤の点滴は中止して、錠剤に変更となりました。
昨日まで出ていた熱も落ち着きを見せ、37度にもならなくなりました。
朝なんかは35.1度を叩き出して、もう1回測って貰ったり(でも35.2度)。

5日目、相変わらず全粥ですが、熱は下がり、何処も痛くない。
なので、日曜に外出許可を貰って、不足物資の補充をしに行くことになりました。
そして、御飯も食べられる様になり、抗生物質は錠剤になったので、点滴も外れました。
一応、水を使わないシャンプーとかで頭を洗ったり、顔を洗顔フォームで洗ったりはしていましたが、流石に好い加減お風呂に入らないと匂ってくる。
と言う事で、やっとシャワーを浴びることが出来ました。
ついでに、5日間伸ばし放題だった髭も剃ることが出来たのでさっぱりしました。

因みにこの5日間、ひたすら本を読んでいましたので、そのうち書評を書くことになるか、と。

6日目、朝ご飯を食べてから外出許可を貰って、一旦家へ。
乗換駅に着いたら例によって赤羽岩淵行きがやって来る。
前だったらこれが鳩ヶ谷行きだったのですが、減便されてしまったので余計に不便になりました。
おまけに、前の鳩ヶ谷行きだったらバスに乗れたのに、今度のダイヤ改悪ではバスが出てから駅に着くと言うフィーダー路線を全く意識しない双方のダイヤ体系なので疲れます。

そして、日曜に家で仕事すると言うね…。
いやいや、働き方改革万歳ですわ(皮肉。

こうしてゴムのしっかりしたジャージとTシャツと長袖シャツ、それに下着類を袋詰めして、後は読み終えかけた本を1冊補充して、ついでに成田詣での釣果を整理するためのパソコンを準備して、病院に舞い戻り。
17時には帰りますと言って、ギリギリの17時5分前に守衛室を抜けると言う離れ業でした。

昨日から完全にお粥から丼飯に変わり、数値もほぼほぼ落ち着いてきましたし、炎症の数値も正常値に近付いたので、退院の話が出て来ました。
元々、月曜で出る予定だったのですが、2日目の数値が余り良くなかったので1日遅れの火曜日になりました。
とは言え、次が詰まっているらしいので、11時までに追いだしたいらしい。
まぁ、長逗留しても今更意味が無いので、さっさと出る事にしました。

今日の朝食は食パンに変更。
矢張り、朝食がパンの方が落ち着きます。
身の回りの整理も済ませて、会計を済ませようとしたのですが、ふと気が付くと診察券が見つからない。
病棟に置いてきたのかしら、と病棟に聞いたのですが、預かった覚えが無いと言う。
忘れ物で出ているのかを聞いても出て来てないので、新しく発行して貰う事になりました。
ただ、古いものが無効になると言うものではないので、使おうと思えば使う事が出来るのですよね。
ちょっと気色悪いと言えば気色悪い。
その上、会計では振込みの上限値を設定していた御陰でお金が引き落とし出来ず、慌てて別の支払方法で支払ったりとかなりバタバタしました。

まぁ、ほぼ保険金で返ってくるとは言え、毎回緊急入院は面倒です。
幸い、これで入院した御陰で5月の入院はほぼ無くなりましたが、それでも確認の予約は入っているので、ちょっと戦々恐々としています。

激しい運動は避ける様にして下さいと言う事なので、暫くライブは御預けになりそうです。
或いは着席指定席狙いでしょうかねぁ。
写真が止められなかったのは幸いでしたが、どちらかと言えば体質で、生活習慣病とかではないので、生活指導が余り意味を為さないらしく、お医者さんも何を制限するかと言うのは明確には言えませんとの事でした。
強いて言えば、激しい運動は避ける様にと言う事でしたからね。
飛び跳ねない限りは大丈夫と言えば大丈夫なのかも知れません。
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HP0、MP0 オラに元気を分けてくれ [健康]

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土曜日はばっしょーちゃんにノックアウトされて、HPが下がっている状態にも関わらず、日曜には成田に行くという暴挙をしたために、今日は完全にHPもMPも0にまで落ちてしまい、何とか会社には気力で行ったものの、ほぼほぼガス欠状態です。

熱い風呂に入って、何とか固まった筋肉は解したのですが、まだまだ本調子ではありません。
入院から半月以上経て、もう体力が回復したと思っていたのですがまだまだ甘かった。
確かに、体重はまだ3kg落ちたまま回復していませんからね。

御陰で、今日はボロボロで釣果の整理もできません。
今日は早く寝てHPを回復させねば。

こんな状態で、週末またライブに出掛けると言う暴挙を計画しています。
流石に日曜には投票に行くだけなので、不在者投票でもしてこようかなとは思っていますが。

こんな為体ですから、新元号の話も、エイプリルフールの話も何も出来ません。
しかし、4月1日に元号発表なので、エイプリルフールなんか出来ようはずがないですが、某地方紙のエイプリルフール特集の紙面は、現実世界が小説より奇なり珍なり摩訶不思議なりなので、出来が余り良くありませんでした。

こんな感じで、真面目過ぎて笑いの無い時代が始まるのでしょうかね。
令和って「和」自体は、「和する」とかある様にのどかとかそんな感じの柔らかい語なのですが、「令」の意味を探ると「掟」とか「言いつけ」を指す言葉だそうですから、少し剣呑な部分があります。
掟を和するってどう言う意味なんでしょうか。
みんなが同じ方向を向いて進め、よそ見はするな、批判はするなと言う風に取れてしまうのですが。

この元号が出て来た時に子供に聞いたら、「命令」の「令」だよねと言う感想が出ていました。
まさかの杞憂である事を祈りますがねぇ。
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