SSブログ

平成最後の日 [日記]

画像

矢張り退院後の疲れが出たのか、今朝早くに目が覚め、二度寝したら10時過ぎの起床。
大宮に映画を見に行こうかと思っていましたが、諦めました。

朝飯を食べて、iTunesのコンテンツ見直しに着手。
CDを買っただけで、一度も聞いていないものが結構あったので、その整理も兼ねてCD置き場を引っ繰り返していたのですが、「こんなの買っていたのか」と言うCDも結構ありました。
最近は、ダウンロード販売やApple Musicの様に聴き放題サービスもありますが、それを抜きにしても、ライブラリに反映していないコンテンツが多かったです。

取り敢ず、インデックス検索して引っかかるかどうかを確認し、無いものを取り込む。
また、抜け落ちているコンテンツはダウンロードで購入。
最近、塔のオンラインクーポンのコスパが余り良くないので、固定で買っているアーティストさんのCD販売のチェックが疎かになり、買い忘れる事が多かったりします。

そんなこんなをしていると午後いっぱいかかり、夜にちょっとだけテレビを見て、その後は残り300枚の写真の整理。
一応、2年落ちのi7CPUで稼働させているので、そんなにパフォーマンスが低いとは思わないのですが、アドオンのメモリーコンフリクトエラーが多くて、メモリーを増強すべきなのかな、と思ってみたり。
まぁ、アドオンを一旦外して、再度追加をすることで再び使える様になるのですが、もう少しメモリーを増強したり、あるいはM.2SSDに換装するなどの強化策をそろそろ考えても良いかも知れません。

アドオンの復旧に結構手間が掛かった為、結局、今日のブログには上げることが出来ず。
ま、明日のブログには上げられるでしょうが。
そして、そうこうしているうちに、CDの保護袋が底を突いたので、明日は塔辺りに出張って保護袋を買いに出掛けようと思います。
まぁ、渋谷に行くとエビ展にも行けますし、他の塔でも良いですし、秋葉原に久々に行くも良し、此処2日間はどこにも出掛けていない引き籠りなので、そろそろリハビリで何処かに行くのも一興かな、と思っています。

そんなこんなで、平成最後の日だからと言って、何も特別なことはしていません。
令和最初の日だからと言って、明日だって何か特別なことをするか、と言えば、そんなことは無いのでしょうけどね。
nice!(0) 

信濃中世武家伝 [読書]

画像

昨日今日と2,000歩以上歩いたので、取り敢ず今日は家に引き籠もり。
明日は映画でも見に大宮に行くかエビ展を見に渋谷に行こうと思っていたのですが、どうも雨らしいので、どうしたものか悩んでいます。
余り雨が続く様であれば、雨をついても出掛けた方が吉の様な気がするし。

出来れば、5月3日と5日辺りは成田に出掛けたいんですよね。
折角の連休だというのに、何処も行かないのは…そりゃ、体力が落ちているのはありますが、余り引き籠もっているのもどうかと思うので。
まぁ、成田の場合は関空やセントレア、羽田に比べると余りトラフィックが多く無いので、ベンチさえ確保出来れば座っている事も結構多かったりするのですよ。
途中の空き時間の他、特定の機種以外、国内線の機体に関しては、ベンチに座ってぼーっと眺めているもありかな、と。

で、今日は先月末の成田の釣果を整理していました。
大分、片付きましたが、後300枚程度残っています。
と言うか、3月21日の分も残っていたりする。
本当は入院中に片付ける予定でしたが、PCの電源を持ってくるのを忘れたので、PCを作業に使うことができませんでした。

なので、入院中読んでいた本の紹介。

『信濃中世武家伝 信濃武士の家紋と興亡』(田中豊茂著/信濃毎日新聞社刊)
一昨年に購入した本ですが、中々読む機会が無くて積ん読になっていたものです。
作者は、信濃とは縁もゆかりも無い丹波篠山の人。

時に、信濃と言えば厨二病で絶対に通過するゲーム、「信長の野望」シリーズや「天下統一」で武田信玄を選択すると最初に攻め込む場所です。
武田信玄と言えば、何となく信濃と言うイメージがありますが、実際には甲斐の武将。
では、信濃の武将と言えば誰がいるか、と言うと、一番有名なのが真田ですが、真田はどちらかと言えば戦国後期に出て来た家であって、本来の名族とは言い難いものがあります。

実際に信濃で勢力を持って居たのは、小笠原、諏訪、村上、木曾の各氏です。
このうち、小笠原と諏訪は何だかんだ言いながらも、江戸期を通じて大名家として存続していますし、木曾氏も改易されましたが江戸期まで大名家として遇され、村上は上杉家の一門衆として会津に勢力を扶植しました。

米の産出こそ少ないですが、そもそも甲斐国同様、信濃国も京に供給する馬の一大産地でした。
馬は戦力にもなりますから、結構な値で取引されます。
その為、彼等はかなりの経済力を有していました。
しかしながら、武田の甲斐、上杉の越後、今川の駿河などと異なり、信濃は軍事の重要性、即ち馬を産出すると言うことで、鎌倉期は北条得宗家の直轄地でしたし、室町に入ると小笠原氏が守護大名となるも、南北朝時代は北条家の影響力が強く、その後は南朝の皇子が入り込んだり、幕府の方針も一貫せず、小笠原氏がずっと信濃の支配を続けることが出来ません。
また、都にいた小笠原宗家と、地生えの小笠原支族との対立もあり、守護大名だった小笠原は戦国大名への脱皮に失敗し、遂には武田に国を逐われることになります。

諏訪氏は、諏訪神社の上社と下社に分かれ、経済力を誇っていました。
また北条得宗家の保護を受けていた関係で、小笠原一族とは対立関係にあり、北条得宗家が滅んだ後も、南朝を奉じて室町以降守護家である小笠原一族と対立を繰返します。
途中、上社と下社の一族同士の対立も加わり、弱体化したところに武田氏が侵攻して本宗家が滅ぼされます。
これも戦国大名になり切れなかった訳です。

村上氏は先の二者よりも規模が小さいので、国持までには至りませんでしたが、上杉や長尾家の後ろ楯を得て北信濃に一定の勢力を扶植しています。
こちらも守護大名の小笠原家とは対立を繰り返し、特に大塔合戦では国人勢力の盟主として彼等を率い、守護大名家を撃破しています。
城などはかなり盤石なもので、武田信玄も攻めあぐねますが、最後には影響下にあった海野一族などが真田家の調略にあって信濃を追われました。
しかし、信濃を追われたのが原因で、庇護者を自認する上杉謙信と川中島に於いて武田信玄が度々合戦を繰り広げた訳です。

木曾氏は木曾谷という特殊な地形を根城に、守護大名家である小笠原とは距離を置いています。
彼等は木曾義仲の後裔を名乗っていますが、室町時代の木曾氏は実は平家であり、木曾氏の名跡を僭称しているに過ぎません。
それでも、その領地の特殊性もあり、武田信玄は信濃攻めで無理に木曾氏を攻略することをせず、膝下に置く事を考えています。

これら、小笠原、諏訪、村上、木曾の各氏は、信濃四将と呼ばれましたが、勿論、信濃の武将はこれだけではありません。
これら信濃四将の一族もいますし、大きな勢力に育ちきれずに、複数の村、地域を支配する国人領主が数多います。

この本では、こうした小さな規模の国人領主にも焦点を当て、相当量の資料を読み解いてその実像に迫ろうとしています。
小さな規模と言っても、後に江戸幕府の大名や旗本となった保科氏、真田氏、遠山氏、依田氏などもいますし、何とか家を繋いで、真田氏や小笠原氏、それに上杉氏の家臣として仕えた家もあります。
そうした家、あるいは帰農した家にはそれなりの資料がありますが、戦国期に滅亡した家となるとちゃんとした資料が残っているものは皆無に等しく、周辺の地誌とか神社仏閣の記録から辿るしかありません。
流石にどうしても記録が見つからないあるいは精度として如何なものかという記録類がない武家は漏らさざるを得ないのですが、それでも全部で32家に上る武家を取り上げています。

著者の研究熱心さには頭が下がる思いです。
その推理の過程も探偵小説を読んでいる様な感じですし、その部分を読むだけでも面白いです。
また、家紋から、先祖がどこから来たか類推すると言うのもやっています。

余談ながら、様々な武家が行き交った信濃ですが、備中の戦国大名であった三村氏は、関東を出自にしていますが信濃を経て、備中に新補地頭として派遣され、その一族が備中を征して戦国大名へと脱皮しました。
一方、薩摩に勢力を持って居た島津氏は、鎌倉時代初期に九州の領地に加えて北陸から信濃に掛けて領地があり、庶子家を支配に当たらせています。
その後、庶子家は島津本家との関係が絶たれますが、信濃の島津家は、武田信玄に圧迫された後、上杉謙信に仕え、重臣として会津でも重きを置く様になっていたりします。
この辺の有為転変も面白かったです。


信濃中世武家伝 信濃武士の家紋と興亡
信濃毎日新聞社
2016-11-25
田中豊茂

amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト


nice!(0) 

食事制限中 [健康]

画像

流石に退院した翌日なので、10連休にも拘わらず静養日。
とは言え、1週間以上病院のフロア内とか、精々行っても地下の売店までしか歩いていないので体力は落ちている、と言う訳で、散歩がてら散髪しに行きました。
10連休なので開いているかと言うのが不安だったのですが、幸いにして開いていて一安心。
何時もはめちゃ混みなのに、今日は流石に休みだからか、先客が2人くらいしかおらず、ちょっと待つだけで順番が来ました。
ところが、1時間くらいするとずら〜っと並んでいたので、早めに出て良かったです。

取り敢ず、髪の毛がとっ散らかっていたのを綺麗にして貰ってさっぱり。
夏前まで、これで保ちます。

帰りにスーパーに寄って、果物とかうどんとか買って帰って…。

因みに昨日の昼ご飯と晩ご飯はお粥にしました。
で、今朝から普通食にしたかったのですが、昨日のお粥が残っていたので、それを食する事に…。
昼は菜っ葉だけが入った健康的なうどんにして、晩ご飯はかなりの軟飯にして胃腸の調子を整えています。

一応、胆管炎を防止にするには、天麩羅やフライといった揚げ物、バラやロース肉、サーロインステーキ、それに鶏皮、ベーコンやソーセージといった肉の脂質の多いもので、特に飽和脂肪酸のあるものは絶対駄目。
脂質の摂取は、胆汁の分泌を促すものなので、今の段階でこれを摂取するのはちょっと拙い。
肉の脂質で無くても、鯖や秋刀魚といった脂ののった青魚も良くないそうです。
厚揚げや薄揚げ、がんもどきの様な大豆を揚げたものも駄目らしい。

また、胆管炎の原因となる胆石を構成するのは主にコレステロールなので、コレステロールが多く含まれている食品は基本駄目。
先に挙げた動物性の脂質はコレステロールを多く含むので、それを控えることでコレステロールを減らすことが可能。
他にレバー類、鶏卵やウズラ卵などの卵類は絶対駄目。
因みに、イクラとかからすみと言った魚卵類も駄目。
鰻もコレステロールが多いからNGですが、意外にもシシャモやらイカ、貝類にも多い。
それに、ショートケーキやらシュークリームと言った生クリームを原料にしているのは余り良くないらしい。

豚や牛の肉類だとヒレ肉、腿肉、肩肉、皮のついていない鶏肉だとささみ、胸肉、腿肉。
ソーセージの代わりに使えるのはボンレスハム、ベーコンの代わりに使えるのがショルダーベーコンだそうです。
魚系だと鰹、鯛や鱈、鰆、鰯と言った白身魚は良いらしい。
それに、赤身でも鮪のトロになるとコレステロールも低くなります。

油を摂る場合でも、動物性油脂はなるべく避けて、植物性油脂に置き換える。
例えば、マヨネーズの代わりにノンオイルドレッシングとか、バターの代わりにマーガリンとか。
コーヒーに入れる牛乳の代わりに低脂肪乳かニドの様な植物性のものか。

流石に脂質ゼロはやり過ぎです。
しかし、動物性よりは植物性由来のものが好ましく、もし、動物性のものを摂るにしても、排出出来ればそんなに大きな問題ないので、繊維質の多い食品、芋類や根菜類、豆類や果物を並行して食べるのが良いらしい。
海藻類や茸類も摂取する事で必要なビタミンとかミネラルを補充出来るそうです。

胆管炎の原因となる細菌やバクテリアは、腸に巣くっているのが十二指腸を経由して胆管に入り込み悪さをするので、腸に悪玉菌を出来る限り入れない様にする必要があります。
なので、その原因になり得る生魚、刺身類は今のところ良くない。
鮪のトロは脂質もコレステロールが低いのですが、人間が調理するものですから、どうしても細菌が付きます。
腸に変な菌が付くのを防ぐ為にも、当面は摂取を控えた方が良いそうです。
そう言う意味では、生野菜も…。
果物については酸性のものは摂取しても問題ないらしい。

本来、人間の胃液は塩酸主体ですから、殆どの細菌をここで殺してしまいます。
そして、腸に変な細菌が流れるのを抑止しています。
ですから、胃の状態、腸の状態を正常に近づけていく必要があります。
胃薬を服用するのは、胃を正常な状態に戻しますが、その過程で胃液を中和する働きがあるので、逆に細菌にとってみるとそこで処理されるものが抜けてしまいかねません。
今の段階では、胃薬は余り摂取しない方がいいらしい。
逆に、整腸剤は腸の環境を整える事になるので、摂取しても良いとか。

こうして書き出してみると、制限が多い様に思えますが、全然食べちゃ駄目というものでは無く、適量を、それに対抗出来る食物と共に、規則正しく摂取するのが一番であり、胃と腸の調子は常に最良の状態に整えておく必要があると思います。
また、摂取出来なくとも代替品はそれなりにありますからね。
nice!(0) 

棺桶に片足突っ込んで帰ってきました [健康]

画像

先週木曜に高熱を出して、こりゃいかんわい、と、金曜に会社を休んで病院へ。
一応、今回は何時入院しても良い様に、着替えも洗面道具も、暇潰し用の本も、バッテリーに充電器にノートパソコンで、写真の整理をすべく外付けSSDとかWiFiルータも持って行きましたが、入院の時に直ぐに出せる様に…、ただ診察には邪魔なので、玄関のコインロッカーに荷物は放り込んで何時もの様に飛び込みで診察室へ。
幸い、消化器内科の部長さんが診察当番で出ていらしたのですが、2本突っ込んだステントが、細かく分岐している胆管を塞いでしまい、そこが炎症を起こしているのでは無いかと言う診断が為され、救急措置室で抗生剤の点滴を受け、採血されて、レントゲンを撮りに行きなさいと云う事になりました。

行きは元気よくレントゲン室の前まで行って、胸と下腹部のレントゲン撮影を終えたのですが、服を着て外に出た瞬間、強烈な立ちくらみというかまさに「ぐぁ〜〜〜〜〜」となって、心臓が苦しくなり、立っていられなくなって、目の前にあった待合のソファに寝っ転がる。
その時、珍しくレントゲン室の待合には誰もいなかったのですが、ふと目を転じると人の足が見えたので、声を振り絞って、「だづげて下さ〜〜〜い!」(正にこんな感じの言い方)と叫んだら技師さんが気付いてくれました。

慌てて起こしてくれたのですが殆ど意識朦朧状態。
近くの看護師さんや、電話で救急措置室にいた常勤医とかが駆付けて、ストレッチャーで救急措置室に運ばれましたが、体温が急激に低下するのが判りました。
レントゲン室から救急措置室までそんなに距離がないのですが、時間が凄く掛かった様に思えます。

あっと言う間に裸にされて、術衣を着せられ、鼻に酸素チューブを付けられ、血圧と血管内の酸素濃度を測ったのですが、後者は完全に測定不能、前者は最高血圧が50ちょっと(正常な人の半分程度)しかありません。
そりゃ、頭に血流が回らなくなって頭の中がグルングルンするはずです。
そして、手や足は冷えて痙攣を起こしていました。

酸素チューブからの吸入があまり効果がなさげだったので、酸素マスクに切り替えられ、一酸化窒素吸入量法を施された模様。
これは一昔までは新生児とか幼児に行われたものだったのですが、最近になって成人にも適用されていて、低酸素状態の場合に肺の血管を広げて吸入酸素量を増やすという治療法だそうです。

何回か問いかけられましたが、完全に意識が飛んだ訳では無かったので、受答えが出来たのが勿怪の幸い。
ただ途中で尿意を催したので、「おしっこ」とか口走ったのでしょう。
尿道にカテーテルを突っ込まれることになりました。

抗生剤と輸液の点滴と、酸素吸入の御陰で数時間後には血圧が上がり始め、何とか血圧は正常値に、そして血中の酸素濃度も測定出来る状態に戻りました。
まぁ、御陰でそのまま入院となりましたが…。

後から聞いた話ですが、先生の予想通り、細い胆管で炎症が起きていた様です。
胆管の近くには血管があり、炎症の起きた胆管から毒素が出て、そのまま全身に流れ、全身に悪影響を及ぼした、俗に言う「敗血症」という状態に陥り、更にその中でも重篤な「敗血症性ショック」に陥った訳です。

これが出先とか家の近くで起きていたとしたら、救急車で最寄の病院に運ばれたとしても、毒素が出ている部位の特定に手間取る危険性が無きにしも非ず。
たまたま胆管炎の主治医の病院内でぶっ倒れたので、どんな毒素が出ていたかと言うのが直ぐに同定出来たのと、偶々、敗血症となる直前に抗生剤の点滴を受けていたのが幸いでした。
因みに、敗血症という病気、毒素が出ている部位の同定が1時間遅れると生存率が下がり、3時間遅れると死に至る確率が急上昇する怖い病気です。
また、病院の医師のレベルによっても延命率が異なり、設備が整っていたり、経験豊富な医者がいる病院でも致死率は10%、設備が整っていない、或いは経験不足の医者がいる様な病院だと実に致死率25%に達すると言います。

本当に、ほんの10分前はまだ元気だったのに、短時間で人の命に関わる状態にまで陥る敗血症は、非常に恐ろしい病気だと言う事を改めて認識しました。
何しろ、敗血症なんて言う病気自体、無縁だと思っていましたからね。

取り敢ず持ち直したので、局所麻酔無しで緊急内視鏡手術。
この頃には大分意識が回復していましたね。
局所麻酔を入れるのをオミットしたので、何度か胃液を吐きましたが。
中に留置していたステントを引っこ抜いてステントの代わりにドレン管を胆管に埋込み、鼻にそれを伸ばして胆汁を外に出すと言う措置をしてから、その侭入院。

病院の前のコインロッカーに放り込んであった着替えなどの荷物は役に立ったのですが、毎回熱のせいかボケていて、薬を持ってくるのを忘れたのと、健康保険限度額適用認定証、それにパソコンを持って来たのに電源を忘れるという大ボケを為出かしました。
特に処方薬を持ってくるのを忘れたのは痛くて、院内処方で既存の薬も退院時に1ヶ月分貰う事になってしまって、まぁ、これを当面飲み続けるしかないのかな、と。

外に胆汁を出すというのは、中に流して再度毒素が流れるのを抑止する手法だそうです。
御陰様で、水曜までずっと、ドレンが鼻から出ていて、しかも少しでも引っ張ったりしたら全然別の所の体液が排泄されてしまうことから、初日はミトンみたいな手袋を装着させられ、鼻に手をやらない様にされました。
寝相が良いのと、CPAPを普段やっている関係上、2日目からはミトンは付けずに済みましたが。
大体、1日で100ccくらいの胆汁がドレン袋に溜っていました。
しかし、鼻からドレン管が出ているので、鼻の頭には固定用の絆創膏、更に頬にも管を固定する絆創膏が貼られていたので無闇に顔を触れず、おでこと目のまわりを除菌シートで拭くくらいしか出来ず、ヒゲも伸び放題でした。

金曜は完全に安静にして、土曜には排尿カテーテルが外れ、毎度おなじみトイレまで歩いて、大やら小やらがちゃんと出るかを看護師さんに確認してもらいました。
日曜日からは飲料止めが解消されましたが、口の中カラカラ、舌にも苔が生えていて、唇は皮がめくれ、偉いことになっていました。
薬用リップクリームを持ってくるのを忘れたのも痛かった。

お粥さん主体の御飯も今週に入って復活しましたが、入院中、遂に固形飯にはなりませんでした。
と言うのも、木曜に再度内視鏡手術を受けて、今度は再度ステントを留置する手術をしたから。
此の日、事前に医者から点滴針を入れて貰う事になっていたのですが、起き抜けで血圧が低かったのか、未だインターンの研修医だったからなのか、針を挿しては外し、挿しては外しで、右腕に都合八箇所もの穴が…(苦笑。
インターンの研修医2人目が来ても上手く行かず、3人目のベテランの人が来てやっと針を入れてくれたのですが、丁度関節に当たる場所でしたので、こっちがちょっと色々手首を動かしたら、どうも針が曲がってしまったようです。
事前準備の抗生剤を点滴する看護師さんが一目見て、駄目出し。
やっぱり餅は餅屋と言うべきか、慣れていると言うべきか、曲がった針を外して一発で狙った場所に点滴針を打ち込んでくれました。

…まぁ、看護師さんもそうだけで医者も丁度、OJTが開始される頃だからねぇ。

余談ながら、今回は3年前に入院した階と同じ階だったので、看護師さんも顔見知りの人も多く、「また入院ですか」なんて言われつつ、こっちとしてもリラックス出来ました。

ステント設置については、局所麻酔ありの状態で術式を受けたので、金曜みたいに吐きもしませんでした。
そして、2本目のステントを入れた胆管は幸いにして拡がっていたので、新たにステントを入れる必要は無いと判断し、ステントは1本だけに留めました。
ま、この手術を受けたので再び飲食止めからスタートして翌日昼に全粥でスタートし直した訳です。

因みに、普通の患者さんの場合、2週間以上の入院期間が必要らしいのですが、体重が3月に比べると11kg減ったのと、体力がかなり落ちたほかは、回復が目覚ましく、今日退院となりました。
丁度平成から令和に至る頃に、入院していた病院は新病院に引っ越す事になっていました。
改元と病院の引越しと言う二重の意味で一瞬期待してワクテカしたのですが、私の治りの方が早かったようです。

当面は油物や生もの、コレステロールの高い食品はなるべく避ける様にして、再び敗血症で倒れない様にしないといけないですし、そもそも、胆管の炎症もどうにかしないといけませんね。
今月は未だ10連休があったから良かったですが、来月に同じ様に入院となると、もう年休に後がありませんから。
ただ、胆管狭窄はこればかりは何時起きるか判りません。
身体の中に抱えている爆弾と、如何に共存するかと言うのをちょっと考えないといけないでしょうね。

それにしても、簡単に死を捉えている人もいるかと思いますが、血圧50まで下がった状態で死ぬのはかなり苦しいものがありますよ。
「走馬灯の様に人生が…」とか「花畑が見える…」とか「知り合いが手を伸ばしてきて…」とか言うのは全くありませんでした。
あれで死んでたら完全に化けて出るパターンですね、世の中に未練がありすぎて。
死というものを軽く考えているのであれば、考え直した方がいいです。
死の淵から生還した私が言うのですから間違いないです。
nice!(0) 

単なる風邪であって欲しい [健康]

画像

今日はちょっと調子が悪く、午後から余り気力が起きない。
と言うので、早めに会社を出たのですが、家に帰り着くとかなり熱っぽく、先ほど測ると38度手前。
また、炎症が始まったのか、それとも単なる風邪なのか、非常に微妙なところです。
出来れば、入院せずに済ませたいのですが…病院も移転することですし。

これで熱が引かなければ、明日は一応入院セットを持って病院まで行く事になりそうです。
まったく、ここ最近温和しくしていたというのに、一体俺が何をした、と。

この調子では10連休もひたすら家で静養か病院か別の病院に転院かと言う事になりそうな予感。
明日は熱が引いてくれると嬉しいのですがねぇ。

と言う事で、寝ます。
nice!(0) 

世界から消えた50の国 1840-1975年 [読書]

画像

学生時代、神戸の端から端まで通っていました。
なので、途中下車すれば三ノ宮に寄れる訳で、とは言え、貧乏だったので余り三ノ宮に寄っても何が出来る訳で無く、寧ろ、県庁前の市立中央図書館に入り浸っていました。

1階は普通に借りる事の出来る書架が並んでいましたが、2階は専門書が多かったのを覚えています。
それでも、全く借りる事が出来ないのか、と言えば然に非ず。
借りられるラベルのついている本であれば、専門書でも借りることが出来ました。
時々借りていたのが、港町神戸らしく切手の本。
それも洋書で1冊の分厚い本でした。

同じ系統では4冊セットの本もあったのですが、流石にそれは貸出し禁止の本でした。
何故、あの本だけが貸出し可能だったのか謎です。
その本は植民地も含め世界各地で発行された切手を網羅した本です。
日本でも郵趣関係の本はありますし、外国切手についての本はありますが、カタログ的な本は日本の切手に関するものだけですね。

今回の『世界から消えた50の国 1840-1975年』(ビョルン・ベルゲ著/原書房刊)は、ブラックペニーが発行された後、今は存在しない国や地域の切手を紹介しつつ、それらの地域や国々がどんな場所だったのかを紹介しているものです。
因みに作者は切手とは全く関係の無いノルウェーの建築技術者で、彼の書いた建築関係の著作は、世界各国の大学の建築学部で教科書として採用されているそうです。

そんな人が何故こんな本を書いたかと言えば、その人が切手収集家であったと言う事でしょうか。
海外の切手を集めていれば、これはどこの切手だろうって思うことが多いです。
特に古い切手を集めている人であれば尚更です。
うちも、母方の実家が海外と商売をしていたので、家に祖父が持ち帰ったと思しき海外の切手が多数有りました。
今となっては、一体どこの切手だ?と言うのも多数有ります。
そんなところから、どんな国なんだろうと言う興味が湧いて来るのも確かです。

そんな本の記念すべき1つ目の地域は、1840年に切手が発行された両シチリア王国です。
今のイタリア半島南部とシチリア島を版図とする、ブルボン王家の統治していた王国でしたが、余りにも貧富の差が激しい国であり、1860年のイタリア統一により呆気なく瓦解してしまいました。
両シチリア王国はまだメジャーですが、以降、一体どこにあるの?と言う様な国や地域が続きます。

オーストラリア南部にあったヴァン・ディーメンズ・ランドとかは、英国の植民地でかつ流刑地でしたが、今はこの地名は使われていません。
流刑地で名が売れたために、余りにもイメージが悪すぎるとして、1856年にタスマニアと改名されました。
現在ではそこにあった監獄が観光地として有名ですが/。

東欧には東ルメリアと言う国がありました。
露土戦争の結果、ブルガリアの一部としてマケドニアも含め、ロシアの影響下にオスマントルコから独立しましたが、英国やドイツなどの干渉により、ベルリン協定の結果、オスマントルコとブルガリアの緩衝地帯として設置された国でした。
これも徒花で、結局は1908年にブルガリアに併合されています。

インドシナに1888〜1890年の間、現在のヴェトナムとカンボジアの国境付近に忽然と姿を現わしたのが、セダンと言う国です。
これは1人のフランス人が築いた王国でしたが、彼は香港で中国人相手に貿易独占権を餌に大金をせしめます。
それに味を占めて、フランス本国で同じ様な事をしようとしますが、国からは無視され、世間からは詐欺師扱いされてしまいました。
官憲の手を逃れたこの男は、英国支配下の島に逃れますが、結局はコブラに噛まれて死に、フランス政府は直ちに王国の痕跡を抹消したのです。

こんな感じで、幾多の自称や他称の国々や植民地がこの本に登場します。

勿論、オレンジ自由国、カタンガとかビアフラ、それにパナマ運河地帯と言ったある程度有名になった国や地域も登場しますが、何れも儚く散っていった国や地域の成れの果てです。

最後は1800年から1967年までイエメンの内陸部に存在したアッパーヤファと言う国で終わります。

因みに、日本絡みでは旧ドイツの植民地であるカロリン諸島、シベリア出兵により日本軍が国をある程度支えていた極東共和国、そして日本が謀略により打ち立てた傀儡国家満州国と、米国が冷戦を有利に進めるため、日本から切り離して統治していた琉球が取り上げられています。
ただ、欧州基準での解説なので、正直、ちょっとこれはと言うところは無きにしも非ずです。
まぁ、この辺は訳者のフォローが最後に入ってはいますが。

これを見て、切手の本を見るとまた、味わい深いのでは無いでしょうか。

世界から消えた50の国 1840-1975年
原書房
ビョルン・ベルゲ

amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト


nice!(0) 

行けば良かった…けど今は我慢 [日記]

画像

今日はナタリーさん主催のエビ中10周年記念「エビ展」前夜祭でした。
帰り道に寄れたので、チケットを取っていたのですが、先週病院を出て来た身にとっては、ここで無理してまた病院に逆戻り…特に、10連休にそうなることは避けたいので自重。
涙を呑んで見送りましたが、主にトークショーで、ミニライブがあったくらいだったみたいですね。
こんな事なら、ミニライブは地蔵になっても良いから、参加すれば良かったです。

今週末の春の一大事もやっぱり大事を取って、参加見送りしました。
幸い、2日のうち1日は、チケットをお譲りシステムに回して無事に別の人の手に渡ったのですが(因みに公式のお譲りシステムがももクロにはあります)、もう1日は締め切りの翌日に入院したのでお譲りシステムに登録出来ませんでした。
せめて、直前までお譲りシステムが機能していれば良いのですけどね。

ぴあだと、Cloakという仕組みで、特定の場合は直前までお譲り登録が出来るみたいですし、他にチケットガードという少額保険の仕組みもあるので、リスクは少ないのですが、数ヶ月前にチケットを取って、実際に行けないと言うケースもあるから中々難しいです。

取り敢ず、この2ヶ月くらいは自重しようと思っているのですが、結構な確率でGWに行われるライブを流してしまうことになりそうです。
これが着席指定席だったらまだ参加出来ますが、ライブハウスでのスタンディングですからね。
リズムに乗って、ジャンプとかしてしまえば、またステントが落っこちて元の木阿弥です。

ここは一つ、自重するしか無かろうと。

ただ、ライブは自重するにしても、せめてGWに空港へ赴きたいところです。
基本、立ったり座ったりくらいの単純運動なのでね。
天気と風向きさえ良ければ、出張りたいのですが、あるいはトラフィックの少ない地方空港に行くのも有りかも知れません。
nice!(0) 

忠犬ハチ公 [音楽]

画像

何か、Asiana Airlinesが身売りだそうで。
海南航空系列のHon kong ExpressもCathay Pacific Airwaysに身売りするなど、アジアの航空会社は再編局面に来たのかな…と言っても、海南航空そのものも色々と取り沙汰されていますし。
改めて航空会社の経営というのは難しいのだなぁ、と思ったりして。
最近、イケイケドンドンのANAは大丈夫なんかいな。

そんな話はさておいて、本来入院していなければ、6日にZepp Tokyoに行く予定でした。
そこで行われていたのが、はちみつロケットのワンマンライブでした。

彼女達のパフォーマンスは、夏Sで目にしたのが最初でしたが、此の時は余り興味が無くて、殆ど見ていませんでした。
アニメの主題歌の他、2枚同時にシングルを出していたのですが、殆ど引っ掛からなかったのですね。
事前のネット番組で、活きの良い面白いのがいるなぁ程度で、曲をがっつり聴いた訳ではありません。

それでも、夏Sの後、8月に出した『花人漫画とチョコと雨』が良かったので、ちょっと興味が出ました。
いしわたり淳治さんと林田健次さんのタッグと言うヒットメーカーで出した曲は、サウンドミキシングが良くて、特に冒頭のホーンセクションが心地良い感じだと思ったら、竹上良成さんのサックスとかが入っていたそうで。
結構、それで興味が湧いて、彼女達の曲を聴く様になりました。

それに、このシングルの2曲目、『夜空にきらめく花』は奥華子さんと川村結花さんのタッグ。
川村結花さんは、結構好きなシンガーソングライターさんだったんですよね。

そして、9月のファーストワンマンの録画をニコ動で見て、更に興味が湧きました。
で、初Sでやっとまともに見る事が出来ましたが、彼女達を見ていると、売れる前のももクロ(まだZがつく前の)を彷彿とさせます。
メンバー7人がそれぞれキャラが立っていて、個性的です。
桜エビ〜ずが、「歌」というパフォーマンスに特化して、それを武器にしているのと対照的。

エビ中より少しだけ若いくらいで、年齢構成は余り変わらないし、大学生と高校生の組合せですが、大学生の落着きのあるメンバーと高校生メンバーの若さが上手く噛み合っている様に思えます。
以前、しゃちのチーフマネージャーをしていた店長がここのチーフになっているのですが、彼とも上手くやっていっている様に思えますね。

更に今年、ニューシングルとして、『忠犬ハチ公』と言う曲を出しました。
いしわたり淳治さんの作詞とコモリタミノルさんの作曲というタッグで、60年代を彷彿とさせるサウンドの作りとMVです。

これもキャッチーな曲ですが、これの2曲目である『なかよしグループ』と言う曲も、小西康陽さんが作詞作曲を行っています。
小西さんと言えば、一世を風靡したピチカート・ファイヴのサウンドクリエイターであり、Negiccoの『アイドルばかり聞かないで』と言う名曲がありますが、この曲も、その系列に入りそうな感じの曲で、渋谷系のサウンドでありながら、歌詞がコミカルでした。

このシングルでどんなパフォーマンスを見せたのか、出来れば生で見たかったのですが、それは残念ながら御預けです。
初Sで見た限り、身体的能力は高そうだったので、振付は結構面白いものになったのではないでしょうか。

意外にこのグループ、一番化けるかも知れません。
nice!(0) 

成田詣で−夏?ダイヤ(その3) [飛行機]

画像

ここ最近、成田では、KLMの夏ダイヤで増便分がB.787-9になったり、Flying Honuが関空への連日の慣熟飛行に出掛けたり、JetstarJapanのA.320-200やPeachのA.320-200に新造機が現れたり、Lufthansa CargoのB.777Fに新塗装機が出て来たりしているのですが、ここはじっと我慢の子。
今日も引き籠りで静養日でした。
せめて、夏SのBlu-rayを見たいのですが、あれは7時間ぐらい掛かるので、性根を入れないと中々見られません。
それにしても、エビ中の通販で当選したのに、サインはいぎなり東北産と言うね…。
ま、外れないだけマシだけど。

そんな訳で、今日は成田の釣果貼り貼り。

Air BusanのA.320-200。
画像
最近、韓国の旅行客が少なくなっているのか、昼便はA.321からシュリンクです。

DeltaのB.777-200ER。
画像
Atlanta便で2年ぶりの撮影。

大韓航空のB.777-300。
画像
離陸は意外に初撮り。

NokScootのB.777-200ER。
画像
元シンガポール航空機で初撮り。

中国東方航空のA.330-300。
画像
こちらサイド離陸は初撮り。

Air CanadaのB.767-300ER。
画像
夏ダイヤでCalgary便が復活。

Jeju AirのB.737-800。
画像
離陸は初撮り。

AuroraのA.319-100。
画像
こちらサイドは初撮り。

香港航空のA.330-300。
画像
こちらサイド転がりは初撮り。
機首回りにパッチがいっぱい。

Thai AirasiaXのA.330-300。
画像
こちらサイド離陸は初撮り。

UnitedのB.777-300ER。
画像
こちらサイド転がりは初撮り。

Jeju AirのB.737-800。
画像
去年12月受領で、元英国のThomson Airで運航されていた機体。
勿論、初撮り。

ANAのB.787-8。
画像
2年ぶりの撮影。

中華航空のA.350-900。
画像
去年1月受領の新造機で初撮り。

ANAのB.777-300ER。
画像
こちらサイド転がりは6年ぶりの撮影。

同じくANAのB.737-800。
画像
2年ぶりの撮影。

S7 AirlinesのA.320-200。
画像
新塗装になって初撮り。
nice!(0) 

さて、どうするべ [日記]

画像

今日は良い天気でしたが、流石に退院から間無しなので、静養日。
リハビリの医者に行きましたが、薬だけを貰って、後はパンを買って引き籠り。

しかし、飯を食べたら猛烈な眠気が襲ってきて寝落ちしていました。
なので、何もする暇が無く、ひたすらYouTubeを見ていました。

時に、会社から勤続年数に応じたAnniversary旅行の案内が来ました。
ただ、5月15日までに日にちを決めて出せ、と言うので、今、結構悩んでいます。
旅行資金はそれなりに出るみたいなので、アジアかオセアニア辺りであれば海外にも行く事が出来る位。
国内で贅沢旅にするか、安いながらも海外旅行にするかちょっと悩むところです。

取り敢ず、そんなのをしていたら何も出来ず。
今日はここまで。
nice!(0)