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J-BIRD [読書]

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個々ひと月余り、土曜日に仕事をするという、6勤1休の状態が続いています。
手を動かさない様になんて言ってる割には、やってくれる人がいないので、毎週土曜日、鯖の移動作業が終わった後に行う鯖の起動確認。

朝9時に起床して朝にざっとやれることをして、途中医者やパン屋やスーパーでの買物を挟んで昼から仕事再開し、夕方までと言うルーチンで、一番疲れるパターンです。
1日ずっと仕事をしているわけでは無いので、代休は付きませんしね。

今日もそんな感じで、朝9時に目が覚めて、作業を終えたと言う連絡が来ていたので、10時までにざっと確認。
1台目は問題ないけど、キーボードが英語になっていた。

それを確認して後は昼からにして、主治医のところへ。
まぁ、前の状態から見れば大分落ち着いているので、処方薬は前から10日延びて、ほぼ2ヶ月になりました。
もう少ししたら2ヶ月に1回になるのかな、と。

それは扨措き、越谷で本屋には寄ったのですが、余り面白そうな本は見つからず、バスの時間が迫っていたので、草加ではパン屋にも寄れずで、心残りがあります。
来週、産業医のところに寄るついでに久々に本屋に寄ろう。

帰ってからは一通り鯖は順調に動いたのですが、また1台の鯖はサービスが起動してくれませんでした。
資料が何処にあるのか不明なので、起動時に何かパラメータが足りないのでしょうけど、よく判らないのですよね。
大体、失敗が25%~50%の確率で起きるので憂鬱です。

さて、ここ数ヶ月、寝室で読んでいた本の紹介。
『J-BIRD 写真と登録記号で見る戦前の日本民間航空機』(東京文化財研究所監修/河守鎮夫・中西正義・藤田俊夫・藤原洋・柳沢光二編著/日本航空協会刊)。

全部で440ページの大著です。
日本に1945年、つまり第2次世界大戦で敗戦になるまでどれだけの民間航空機があったのか、未だにその全貌は明らかではありません。
これは、敗戦直後に多くの官庁で機密文書の焼却を行い、その中には貴重な文書、民間航空機で言えば、航空機原簿が含まれていたため、また大正時代のものは関東大震災の火災で失われたためです。

なので、どれだけの民間航空機が存在し、それらが何時登録され、何時破棄されたのかと言う纏まった資料は皆無の状態です。
但し、部分的には個人で保有していた資料が残っていたり、敗戦の際に持ち出された資料が古本屋に出回っていたりと言う感じで断片的に繋ぎ合せることで、何とか部分的な民間機の保有状況が明らかになってきました。

更に最近、英国の航空親睦団体で昭和初期までの日本の民間登録機の記録が発掘され、少なくとも1936年までは既存の資料と繋ぎ合せて、大きなピースが嵌まったそうです。

この本は、そうした記録の繋ぎ合せで作られたもので、戦前に日本に存在した民間機の登録記号を網羅したものとなっています。
勿論、あくまでも1936年までが確実な記録で、その後は日中戦争の影響で戦時体制に移行したため、そうした記録が少なくなっていくのですが。

それでも、日本は元より、植民地や租借地、委任統治領だった朝鮮、関東州、南洋諸島、更に日本が打ち立てた傀儡国家の満州、日中戦争の結果で作られた中国の航空会社の登録記号、更には途中で別体系になった滑空機も収録しています。

また、民間機登録の前提知識として、民間登録記号の最初である堪航証明書や登録証明書など、航空機の戸籍とも呼べる資料の説明やシステムがどの様に運用されたのかと言うのも丁寧に解説しています。
ただ、JがJAになったのは連合国がJを使わせなかったからだと言うのは俗説だと斬って捨てているのはちょっとなぁ、とは思いましたが。
(そもそも、連合国が中心になって1944年に国際民間航空条約が締結され、無線の呼出符号から選定することになったと言う事になっているのですが、何故、ドイツやフランスなどが一文字記号の侭なのかが不明なんですよね。邪推するわけでは無いですが。)

で、本編は何百ページに亘っての航空機登録記号の羅列で、目が回りそうではあります。
それにしても、1930年代でもまだAvro504Kなんて骨董品が未だ現役で練習機として飛んでいたりする訳で、中々この頃の日本も魑魅魍魎味が凄いなぁ、と。
後、猿無村と呼ばれたフランス製のSalmson偵察機(国産化されたので数はある)とNieuport 29戦闘機なんかも払下げを受けて、航空学校の練習機や魚群探知に活躍しています。

この航空学校も、大正時代に全国に雨後の筍のように出来て、奈良原三次や伊藤音次郎の様な航空人は元より、国粋義勇飛行隊という名称で、大阪の河内に飛行場を構えたのは、あの笹川良一だったりします。

また、グライダーについても日中戦争を境に文部省から助成金が出され、太平洋戦争時には操縦士養成が急がれたため、文部省式一型という標準滑空機がかなり製造されたそうで、中等学校を中心に配備されています。
こうした滑空機は故障も含めて1,000機以上あったとあります。

勿論、大日本航空の様な民間航空会社も活動が活発で、Focker Universalを中島飛行機で国産化したのが数十機単位で生産されましたし、その後継機としてDC-2やDC-3、Lockheed 14が輸入、国産化されました。
更に支線旅客機としてはBeechcraft17が用いられていた訳で、輸送規模は小さいものの、意外にもかなりの路線が構築されていたと思われます。

その後、三菱は国産機としてMC-20やMC-21と言った97重爆改造の旅客機、貨物輸送機を投入し、中島もAT-2と言う旅客機を開発していますが、これらは軍用機と民間機が混在して利用されていたので、全数が実は余り判っていません。

太平洋戦争中、これらの機体は整備不良が続き、屡々大事故を起こしていますし、DC-3などの堅牢な機体は、途中で敵機に出会して撃墜されたりしています。
それでも、敗戦時には結構な数の機体が生き延びたようです。
これも原簿が焼失したために何が残っていたのかは全く判らないのですが。

本当、実に読み応えのある本でした。

JーBIRD―写真と登録記号で見る戦前の日本民間航空機

JーBIRD―写真と登録記号で見る戦前の日本民間航空機

  • 出版社/メーカー: 日本航空協会
  • 発売日: 2022/05/21
  • メディア: 単行本



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