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ガタゴト電車 [鉄道]

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今日からお仕事。
それにしても、どんどん包囲網が狭まってきている様な感じがするのは気のせいだろうか。
取り敢ず、今日は派遣法についてみっちり習ってきました。
何しろ、派遣契約で人を雇うのが初めての経験なので、色々と学ばないと変な事になってしまいますからね。
で、引っ繰り返されたりしないでも無い。

さてと、一昨日、昨日と阪神の私鉄について書いてきたのですが、大阪や京都方面の電車には余り縁が無く、京阪電車や近鉄電車は余り俎上に上りません。
まぁ近鉄は、名古屋や名張の親戚に行くときに特急に乗るくらいなもので、それ以外の電車には全く縁がありませんでした。
また神鉄も余り縁が無く、年に1、2回、叔父さん一家に付いていって有馬温泉に出掛ける時くらいしか使いませんでした。

地下鉄も、大阪市営地下鉄も難波に行くときくらいしか使わず、神戸市営地下鉄も学生時代、名谷まで開通した当初に少しだけ通学に使ったのですが、当時は各駅停車しか無かったので、時間的には阪神~神戸高速に太刀打ち出来ず、結局止めてしまいました。

逆に学生時代に電車通学をする様になってから、よく使っていたのが山陽電車です。
阪神電車で高速神戸や新開地まで行くと、阪急六甲(後に三宮)、あるいは阪神大石発の特急のどちらかに乗れましたし、時間に余裕があれば、普通電車でのんびり行くと言う選択肢もありました。
帰りは東須磨始発の特急が夕方ラッシュ時に走っていて、これに乗ると乗り換え1回で帰れるので重宝していましたね。

特急に使われていたのは、クリームと濃紺のツートンカラーの3000系かアルミ地肌にオレンジラインの3050系のどちらかでしたが、更に古いレッドラインの3000系試作車が入ることもありました。
普通は更にバラエティに富んでいて、特急同様の3000系が用いられる事も有りましたし、それより1世代古い2000系や2700系になることもありました。
余談ですが、私鉄でアルミ車体を導入した一番最初の鉄道は実は山陽電車だったりします。
今は堂々6両編成が疾走していますが、当時は特急と雖もまだ4両編成で、普通は3両編成または4両編成。
そしてツートンカラーの車輌は、途中に旧型電車を改造した付随車を連結していたので、他の3両は両開き扉なのに、その車両だけ片開き扉というチグハグな編成でした。
そう言えば、都営新宿線の車輌も一時期1枚窓の電車の中に2枚窓の電車が組み込まれていたりしましたっけ。

特急電車は流石に全車両冷房車でしたが、普通は同じ顔つきなのに、時々非冷房車がやって来る事がありました。
そして、2000系は非冷房車。
夏になると、窓が全開ですが、一応海沿いを走るので風が心地よかったりします。

もっとも、ライバルの国鉄そして後のJRでも快速電車ですら、非冷房車がやって来る事を考えると、中小私鉄の特急電車で冷房車だというのは凄いことだったりします。
そもそも、関東の大手私鉄は当時、未だに戦前に製造されたお古の電車を後生大事に使っていた訳ですから。

車内の造作は阪急電車よりも寧ろ阪神電車に似ていました。
ただラインデリアが無く、冷房設備は阪急の5000系に似ていたような気がします。
冷房を使い始めの時は、黴臭い匂いがしてましたね。

当時は板宿と東須磨の間が地下化される工事の最中で、神戸高速鉄道から山電の路線に繋がる際に、無茶苦茶急カーブでガタゴトガタゴト言っていた様な記憶があります。
で、東須磨から須磨まではレトロな駅舎が続き、須磨から人丸前までは風光明媚で瀬戸内海が見える場所を走っていましたっけ。
まだこの頃は淡路の大橋が工事中で、何時繋がるんだろ、と思っていました。
また、明石手前にある人丸前という駅の名前はインパクトがありましたが、その由来が柿本人麻呂に因むと言う話を聞いて驚いたりしましたっけ。

毎年時の記念日になると、この近くの明石天文科学館がニュースに出て来て、その袂を走る山電が映っていました。
今はこの辺りも高架になってしまいましたが。

国鉄が分割民営化されると、速度とサービスが段違いに良くなり、結局、私もJRに乗り換えてしまいました。
その後、山陽電車に乗る機会は余り無かったのですが、震災後、直通特急というのが走り出すと、5000系が投入されて、阪神の線路にも山電が姿を見せるようになりました。
その時、阪神電車には無かったセミクロスシートや転換クロスシートを備えていたので、羨ましく思った覚えがあります。
今は中小私鉄とは言え、大手私鉄と遜色ない電車が走っていますね。
ただ、明石を超えると相変わらずの沿線風景ですが。
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