ダイヤモンドクロッシング [鉄道]
掃除機を掛けてトイレ掃除をして、と何時ものルーチンワーク。
そして、モニター周りはやる気が無くてそのまま。
終わってからはエビ中のライブ映像を流しつつ、今日はテレワーク。
明日からの会議資料を整理しておかないと後が大変です。
いや、参った参った。
取り敢ず、1つの仕事は片付けたが。
時に、昨日阪神電車の懐かしい話を書いたので、今日は阪急電車の懐かしい話を書いてみる。
今ではどうか分かりませんが、阪神地区では路線に応じて何となく格があって、阪急沿線より北が一番金持ち層が住んでいる地域、そこから下、国鉄(JR)までが中間上層、そこから下、阪神までは中間層と庶民層の混住地域、阪神から下は庶民層の住んでいる地域という感じで分かれていました。
私が学生時代、まだ高度経済成長の余韻が残っていて、「公害」と言う言葉が残っていました。
尼崎は「公害の尼崎」というネガティブなイメージがあったので、尼崎でも阪急沿線に住んでいる人達は、自分が住んでいる地域を指すのに「尼崎」と言う言葉を使わず、最寄り駅の「武庫之荘」を多用していました。
学生時代は武庫之荘の賃貸マンションに住んでいたのですが、貧乏でそこを出ざるを得ず、仕方なしに安アパートに住んでいましたが、それでも頑なに尼崎では無く「武庫之荘」でした。
阪急電車と言えば、昔から変わらず、一枚下降窓で車体色はマルーン、車内は木目調の壁にベージュの床、そしてゴールデングリーンのシートです。
かと言って、古さを感じさせる色味でも無く、余り気になりません。
私が大学生になって、電車通学をする様になってから10両編成が登場しました。
何しろ、8両編成の電車だと特に大阪方面行きが殺人的な混みようでしたから、10両編成になったのも頷けます。
子供時代は西宮に住んでいて、西宮北口が最寄り駅でした。
まだ当時は阪急電車は殺人的な混みようでは無く、今津線は4両編成での運行、神戸線の特急も6両編成で運行していましたっけ。
そして、今津線は今と違って今津方面、宝塚方面に相互直通していました。
今となっては、宝塚方面に行くのに今津線とはこれ如何に、なのですが、そもそもが直通していましたからね。
普通、こうした直通をするのは京王井の頭線と本線が交叉する明大前の様に片方が高架になって、もう片方は地上を走ると言う様な立体交差にするのが一般的ですが、阪急はそうでは無く、神戸線に直角に今津線の線路を通すダイヤモンドクロッシングと言う方式を採用していました。
よって、その双方のホームは地上で乗り換えが出来ました。
改札に向うのは上に上るのでは無く、下に下がる感じの地下通路で結ばれていました。
今のように人をやったらめったらに歩かせるのでは無い、浅い地下通路でしたね。
地下通路と言えば暗く湿った感じのイメージですが、この辺は阪急の拘りなのか、広くて明るく、そのまま改札の出口に続いているので、自然光が入ってくる感じの通路でした。
通路を歩いていて、たまたま上を電車が通ると、「ガタタン、ガタタン」という独特のジョイント音が響いていましたっけ。
残念ながら、ラッシュ対応で電車の編成長を増やす際に、ダイヤモンドクロッシングは邪魔になり、かと言って、神戸線を高架にするには費用が掛かりすぎ、今津線は高架にして直通させるには北と南で収支が余りにも違いすぎるので、分断することになりました。
結果、駅舎は高架上に作られ、ホームとの連絡は地上では無く、一度階段を上ってからになって、バリアフリー上どうなのよ、と言いたい代物になりましたが、小林一三翁が生きていたら何と言ったでしょうね。
それ以後、阪急電車の格が落ちたような気がするのは気のせいでしょうか。
心なしか、内装の木目調も色褪せたように思えます。
それからバブルに掛けて、阪急電車は結構迷走していましたね。
車体色も変えるとか言い始めたこともあったし。
今は原点回帰して元に戻りつつありますが。
良い意味で、古いものは捨てて欲しくないです。