SSブログ

大垣夜行 [鉄道]

CES_A330-200_5949_0001.jpg

今日も会社。
ただ、流石に疲れたので、16時過ぎで終わってCPAPの医者に行ってきました。
平均AHIの数値は20を切っていますが、前回の16から上がって19.4。
ただ、最小使用時間が短くなり、リーク時間は相変わらず高く、マスクの所為では無いかと言うことで、医者からマスクを貰って帰ってきましたが、帰ってみて目が点になりました。

一回り大きなマスクと言うので貰ってきたら、実際には同じ大きさのものだったりする。
今更返すわけにも行かず、来月、笑い話にするしかありません。
帰ってどっと疲れが出ました。

そんなこんなで処方薬を貰って、家に帰ってきました。

ところで、ニュースを見ていたら3月のダイヤ改正で、大垣夜行が消滅するそうです。
今の185系になってからは使いませんでしたが、名目上は車両の老朽化ですが、実際には利用者が高速バスやLCCに流れて、特急形とは言え、ずっとあの座席を乗り通す乗客が減ったのが原因だとか。

いやぁ、日本人も贅沢になったものです(ぉ。
元々は客車列車だったと記憶していますが、私が学生時代に使ったのは165系の頃でした。
その頃はまだバブルや規制緩和が為されていなくて、東名間は国鉄、あるいはJRの高速バスしか走っておらず、その座席も165系と似たり寄ったりで、リクライニング角度が非常に浅い代物。
正直、苦痛でしかありませんでした。

165系も青春18きっぷの時に使ったら、通路にまで人があふれ出ていて、まるで通勤ラッシュ並であり、トイレにでも行こうものなら最後、自由席ですからあっと言う間に席が取られてしまうため、絶対に席を立てないものでした。
4人掛けのセミクロスシートに、4人が座ってキツキツ、ある程度モケットの張り直しをしているとは言え、1960~70年代の平均日本人の体型に合わせているので、真っ直ぐに座る事が出来ません。
通路には新聞紙を敷いた18キッパーの面々や酔っ払いが座ったり寝転んだりしていて、阿鼻叫喚の状態でしたしね。
そして、大垣に到着するや否や、編成の短い米原行き普通に乗り込むためにみんなダッシュです。

そんなことがあったので、普通席を使って往き来するのは諦め、青春18きっぷは絶対に使わずに、グリーン車に乗ることにしていました。
人が溢れるのは仕方ないのですが、グリーン車はある程度のリクライニングが効くシートですし、2人掛けですから4人掛けで窮屈になる事が有りません。
何より、通路に人が寝っ転がるまでに至っていないので、取り敢ずトイレに行くことは出来ましたね。
デッキには人が溢れていましたが。

静岡で運転停車するときに、通常は降りられないのですが、大垣夜行だけは降りる事が出来たので、一旦外の空気を吸いに出て、腰を伸ばして後半の旅に備えると言う事をしていましたっけ。
コンビニが無い時代、キオスクは営業していたのかな、その辺記憶は曖昧ですが、夜食食べて、ジュースを自販機で買ってとかしていたように思います。

ただ、今と違って十分に眠れなかったので、ポヤポヤしながら大垣に着いていました。
今なら、大口開けて寝ているとは思いますが。
大垣駅に着いても、グリーン車組は米原行きの電車に近いところに停車するので、座席争奪戦はそんなに大変では無かったです。

その後、JRになってからは165系から373系になり、「大垣夜行」という通称から「ムーンライトながら」と言う格好良い名称になり、指定席列車になったのでかなり快適になったのですが、何時の間にか373系が撤退して、185系に戻っていたのですね。
最近は私も東名間の移動は、高速バスかLCCで、電車を使う機会が減りました。
流石に昔ほど体力がありませんからね。

ネットの声も「来るべき時が来た」みたいな感じで、「廃止反対」の声は聞こえないのは時代なんでしょうね。
まぁ、若者の反骨精神が失われたのもあるのかも知れませんが。
nice!(0) 

コトコトことでん [鉄道]

CES_A321-200_6753_0006.jpg

今日は休日出勤。
これで明日休めれば最高なのですが、そうは行かないのが浮世の辛いところ。
こんだけコロナが猖獗を極めているというのに、会社に行かねばなりません。
流石に、午前中で終わりにしますが。

どうせ、新橋まで丸餅と餡餅を買いに出ないといけないので、明日は香川・愛媛ショップに寄って帰って来ようと思います。
しかし、この状況で売っているのだろうかと言う懸念は消えませんが。

そう言えば、今日はエビ中大学芸会の千秋楽でした。
当日券はありそうだったので、行ってきても良かったのですが、店じまいが少し遅れて17時になったので断念です。

昨日はたむらぱんさんがスペシャルゲストとして出て来たのですが、今日は更に吉澤嘉代子さんにオリビアさんも出て来たそうで、昨日よりも今日行けば良かったなぁと思いました。
まぁ、それはそれで席が鳥の目になったのかも知れませんけど。
と言うか、骨格を変えずに何となくセトリも変わっているのでは無いかと思いました。
曲が一杯ある分、色んな組合せが出来るでしょうし。
今年は配信シングル2枚とライブアルバムだけですが、今までの蓄積があるのが効いていますね。
こう言う曲をいっぱい持っているグループは強いのでは無いでしょうか。

ところで、くるりと言うグループがあります。
メジャーシンガーなのですが、知る人ぞ知る鉄ヲタさんで、鉄道に関する曲も良く出しています。
まぁ、鉄道に関する曲なんて言うと、売れ線では無いのかも知れませんが。
何せ、2006年のアルバムタイトルが『ファンデリア』ですし、『赤い電車』や『のぞみ1号』、『オールドタイマー』と言う曲もあります。

先週金曜日、くるりが出したシングルが、『コトコトことでん』と言う作品。
その名の通りことでんこと高松琴平電気鉄道をモチーフにして作られた曲で、2011年のことでん100周年記念ライブで初披露され、2018年には瓦町駅の発車メロディとして使われているそうです。

MVもことでんのジオラマをプラレールで作ったりした凝ったもの。


カップリングは『赤い電車』のリメイクです。

今はステンレスの新1000系が主流になり、赤い電車も大分少なくなりました。
快特の三崎口から品川の先の引込線までの前面展望がMVになっています。
歌詞に「赤い電車~」と出て来る度に、赤い電車とすれ違う拘りが面白いMVです。
たまに岸田さんが出て来るのがご愛敬。

こう言う曲を聴いていると、高松まで行ってことでんに、品川から京急に乗りたくなりますね。

コトコトことでん / 赤い電車 (ver. 追憶の赤い電車) 【完全生産限定盤】

コトコトことでん / 赤い電車 (ver. 追憶の赤い電車) 【完全生産限定盤】

  • アーティスト: くるり
  • 出版社/メーカー: ビクターエンタテインメント
  • 発売日: 2020/12/25
  • メディア: CD



タグ:日記 音楽 鉄道
nice!(3) 

武蔵野線205系 [鉄道]

CES_A320-200_6376_0004.jpg

今日も在宅勤務。
ただ天候の御陰か余り体調が宜しくなく、と言うかストレスがかなり溜っているからか、余りやる気が出ず、仕事が進みません。

それはそうと、武蔵野線から遂に205系が引退しました。
この前103系が消えて、去年だか一昨年辺りに201系が消えたと思ったら、あっと言う間に205系の消滅です。
これらの引退車両はまだまだ使えるものですから、これらの車両は順次輸出され、今はジャカルタで第2の人生、いや、車生を送っているそうです。

車体はステンレス製ですから錆は余り出ないでしょうし、走行装置はVVVFの機器に入れ替えていますからそんなに古くはありません。
車体自体は昭和世代ですが…。

元々軽量ステンレス車体は、東急車輌がノウハウを開発したものです。
ところが、当時は日本国有鉄道の末期時代。
今では考えられない事ですが、国鉄は東急車輌に対して、他社への特許開放を迫ったそうです。
東急車輌は泣く泣くそれに従い、この後、各社で軽量ステンレス車体の鉄道車両が作られるようになりました。

製作当時は、103系が全盛だった山手線に投入され、その後、中央総武線各駅停車、横浜線、埼京線、南武線などに相次いで投入されます。
異端車も作られ、前面非対称車が相模線、京葉線と武蔵野線には切妻型の食パンの前面とは異なる、丸みを帯びた「メルヘン顔」と呼ばれた車両が投入されました。
また、関西地区の国電区間にも投入され、東海道線の各駅停車、阪和線に配備されました。

学生時代、神戸の端っこまで通うとき、時々各駅停車に乗った方が早いときがあって、それが205系だと夏なんかは特に喜んだものです。
就職してから、山手線、中央線、京葉線、中央総武線各駅停車にお世話になりましたが、この頃になると209系なんかが出現していて、205系が来たら少し食傷気味だったですね。

特に武蔵野線のそれは、座席が7人掛けにも拘わらず5人か6人しか座っていないことがあって、少しでも空間があれば、すみませんと断って空間を空けて貰っていました。
ただVVVFに改造されたものは、座席横に高い袖仕切りがあって、ドアが開いたときに夏の熱風や冬の寒風が直接吹き込んでこないので良かったです。

先日もちゅうおんの帰り、武蔵野線に乗る機会がありましたが、あれだけ数が少なくなっていたというのに、205系がやって来ました。
単純に引きが良いのか、武蔵野線に乗るときは絶対に205系なのですよね。
今は209系全盛時代になってしまいましたが、なんで毎回毎回205系だったのか…不思議です。

それにしても、武蔵野線205系のラストランも大宮駅辺りは阿鼻叫喚だったらしいですね。
いつもいつも思うのですが、なんでギリギリになって大騒ぎするのか、と思うのですよ。
普段、撮影していれば良いだけの話だろうに。
それに、オリジナルの205系はまだJR西日本に行けば走っていますし、都落ちした改造車が、鶴見線とか宇都宮線、日光線、仙石線に走っていますし、富士急行も走らしていますから、そこに行ってこいと言いたいです。

そんなことばかりだから、鉄ちゃんの肩身が狭くなり、どんどん自分で自分の首を絞めているのが分からないのだろうか、と思うのですけどね。
そして他のものに波及してくると迷惑だなぁと。
くれぐれも、海外であんなことをして欲しくはありませんね。
JRE205-5000I.JPG

nice!(0) 

ズームイン!! [鉄道]

CPA_B777-300ER_KQZ_0001.jpg

今日は目が覚めたら8時前。
御陰で何時もの1本後の始発電車に乗ったのですが、降車駅で降りたら結構な人波。
時差出勤と言っても、1時間遅れただけで、人の波は大して変わり有りません。

明日は術後1年経過後の検査で病院に行く事になりました。
腹部エコー検査を受けて、来週は診察です。
それなりに安定しているので、何も無いことを祈ります。

で、阪急、阪神、山陽と来て、次に取り上げるのが関西にいた頃、毎週のように行っていた南海電車。
関西に住んでいた頃は写真という趣味はお金が掛かるので全くやること無く、読書とプラモ三昧の日々でした。
まだデジカメは画素数が200万画素程度が精々と言う時代で、銀塩写真には太刀打ち出来ませんでしたし、高速被写体を撮影するにも向いていませんでした。
考えてみたら、勿体ないことをしたものです。

そしてプラモ。
年代によって変遷はありますが、子供の頃は自動車の延長で1/35の戦車模型に嵌まり、次に1/700のウォーターラインシリーズに嵌まっていました。
小学校の頃、近くに外国製模型を取り扱うプラモ屋さんがあり、武庫之荘に住んでいたときには友達に模型屋さんがいて、環境は整っていましたね。
その頃流行っていたミニ四駆とかには目もくれず、ひたすらスケールモデルと格闘の日々でした。

ただ、生来の不器用さで、耐水ペーパーやパテ埋めの技術は余り良くならず、ひだすら筆塗りで誤魔化してましたっけ。
ウォーターラインの次は、1/72の飛行機模型が主で、国産各メーカーのプラモだけで無く、エレールのMiG-19やエアフィックスのMosquitoなんかに手を広げていました。
そうこうしている内に、東欧諸国が開放され、ソ連が開放されて、その昔、英国のフロッグが出していたキットをソ連のNovoと言うメーカーがリメイクして販売したりして、珍しい機体が次々に出て来ました。
そうしたキットを買い漁ったものです。

しかし、製作が追いつかず、どんどん積ん読状態になってしまい、東京に来てからは更に拍車が掛かり、とうとうクローゼットいっぱいに模型の箱が並ぶ始末でした。
親が来るときに一度断捨離して、ほぼプラモは消滅してしまいました。
それを機会に足を洗って、今はプラモは全く作らなくなりました。
結局、冬は寒い中窓を開けて換気をしながら塗装をしたりして、また組み上げると飾る場所を取ってしまう事になるので、狭い家だと中々飾る場所がありません。

前置きが長くなったのですが、最初に外国製模型に触れたのが運の尽きで、国産ものが無くとも外国製を漁ればいいや、と言う悪知恵?がつき、様々な場所にそうした模型屋を開拓するようになりました。
三宮はセンター街の模型屋さんはその1つですが、あそこは一番よく通いました。
会社や大学の帰りに気軽に寄れた店でしたからね。

その後、森ノ宮とか西九条と言った大阪環状線、地下鉄沿線に進出し、更には堺東にあった模型屋さんにも足繁く通うことになりました。
まぁ大体、休日のルーティンみたいなもので、10時頃に家を出て、森ノ宮か西九条のどちらかの模型屋さんを覗き、堺東に行って、帰り掛けに残りの模型屋さんを覗き、西九条だったら伝法線で尼崎まで行って家に帰る、森ノ宮だったら大阪で降りて、旭屋書店や紀伊國屋書店を冷やかして家に帰ると言う経路で遊んでいました。

で、堺東に行くのに使ったのが南海電車です。
西九条に寄ったら新今宮から乗り換えて堺東、森ノ宮に寄ったら、難波に出て堺東に行くことが多かったので、本線の普通車に乗ったことはなく、ギラギラとしたセミステンレス車体の車輌に乗るばかりでした。

当時はステンレス車体第1世代の6000系や6100系が主に運行されていて、急行としてズームカーが走っていました。
大体、ステンレス系統に乗る事が多かったですが、早く行きたいときには急行に乗らざるを得ない。
急行は高野山方面に行く人が多いので、常に混んでいる印象がありました。
まぁ、両数も少ないし、編成長もステンレス車に比べると短いですからね。
他に泉北高速線の車輌にもよく乗りましたね。

阪神や阪急の電車に比べるとズームカーはレトロな印象でした。
中でもスピーカーは模様が入っていて、年期が入ってるなぁと言うもの。
独特の調子でアナウンスをする車掌が多くて、駅名を把握するのに苦労しましたっけ。

東京に出てから、東急車に乗ることも多かったのですが、東急車に乗ると、南海電車とうり二つで、懐かしさを感じたものです。
特に東急6000系、7000系と8000系はそんなデジャブ的な感じを受けました。

今では東急電鉄の車輌は大分モダンなものに置き換えられていて、最後の牙城が田都線の8500系ですが、それも崩されつつありますね。
南海の方は、相変わらずセミステンレスの6000系とその近代化版の6300系が未だにのそのそと走り回っています。
流石にズームカーは置き換えられましたし、今では本線と共通の車体を有する系統も多くなりましたが。

最近は、関空詣でに行くのに本線系統にお世話になるばかりです。
6100系の普通鋼版である7100系が消えて、随分とこの会社の車輌も垢抜けるようになりました。
その昔は、百鬼夜行的に支線の釣り掛け車が行き交っていたのですが。
タグ:南海 鉄道
nice!(0) 

ガタゴト電車 [鉄道]

CPA_B777-300ER_KQY_0003.jpg

今日からお仕事。
それにしても、どんどん包囲網が狭まってきている様な感じがするのは気のせいだろうか。
取り敢ず、今日は派遣法についてみっちり習ってきました。
何しろ、派遣契約で人を雇うのが初めての経験なので、色々と学ばないと変な事になってしまいますからね。
で、引っ繰り返されたりしないでも無い。

さてと、一昨日、昨日と阪神の私鉄について書いてきたのですが、大阪や京都方面の電車には余り縁が無く、京阪電車や近鉄電車は余り俎上に上りません。
まぁ近鉄は、名古屋や名張の親戚に行くときに特急に乗るくらいなもので、それ以外の電車には全く縁がありませんでした。
また神鉄も余り縁が無く、年に1、2回、叔父さん一家に付いていって有馬温泉に出掛ける時くらいしか使いませんでした。

地下鉄も、大阪市営地下鉄も難波に行くときくらいしか使わず、神戸市営地下鉄も学生時代、名谷まで開通した当初に少しだけ通学に使ったのですが、当時は各駅停車しか無かったので、時間的には阪神~神戸高速に太刀打ち出来ず、結局止めてしまいました。

逆に学生時代に電車通学をする様になってから、よく使っていたのが山陽電車です。
阪神電車で高速神戸や新開地まで行くと、阪急六甲(後に三宮)、あるいは阪神大石発の特急のどちらかに乗れましたし、時間に余裕があれば、普通電車でのんびり行くと言う選択肢もありました。
帰りは東須磨始発の特急が夕方ラッシュ時に走っていて、これに乗ると乗り換え1回で帰れるので重宝していましたね。

特急に使われていたのは、クリームと濃紺のツートンカラーの3000系かアルミ地肌にオレンジラインの3050系のどちらかでしたが、更に古いレッドラインの3000系試作車が入ることもありました。
普通は更にバラエティに富んでいて、特急同様の3000系が用いられる事も有りましたし、それより1世代古い2000系や2700系になることもありました。
余談ですが、私鉄でアルミ車体を導入した一番最初の鉄道は実は山陽電車だったりします。
今は堂々6両編成が疾走していますが、当時は特急と雖もまだ4両編成で、普通は3両編成または4両編成。
そしてツートンカラーの車輌は、途中に旧型電車を改造した付随車を連結していたので、他の3両は両開き扉なのに、その車両だけ片開き扉というチグハグな編成でした。
そう言えば、都営新宿線の車輌も一時期1枚窓の電車の中に2枚窓の電車が組み込まれていたりしましたっけ。

特急電車は流石に全車両冷房車でしたが、普通は同じ顔つきなのに、時々非冷房車がやって来る事がありました。
そして、2000系は非冷房車。
夏になると、窓が全開ですが、一応海沿いを走るので風が心地よかったりします。

もっとも、ライバルの国鉄そして後のJRでも快速電車ですら、非冷房車がやって来る事を考えると、中小私鉄の特急電車で冷房車だというのは凄いことだったりします。
そもそも、関東の大手私鉄は当時、未だに戦前に製造されたお古の電車を後生大事に使っていた訳ですから。

車内の造作は阪急電車よりも寧ろ阪神電車に似ていました。
ただラインデリアが無く、冷房設備は阪急の5000系に似ていたような気がします。
冷房を使い始めの時は、黴臭い匂いがしてましたね。

当時は板宿と東須磨の間が地下化される工事の最中で、神戸高速鉄道から山電の路線に繋がる際に、無茶苦茶急カーブでガタゴトガタゴト言っていた様な記憶があります。
で、東須磨から須磨まではレトロな駅舎が続き、須磨から人丸前までは風光明媚で瀬戸内海が見える場所を走っていましたっけ。
まだこの頃は淡路の大橋が工事中で、何時繋がるんだろ、と思っていました。
また、明石手前にある人丸前という駅の名前はインパクトがありましたが、その由来が柿本人麻呂に因むと言う話を聞いて驚いたりしましたっけ。

毎年時の記念日になると、この近くの明石天文科学館がニュースに出て来て、その袂を走る山電が映っていました。
今はこの辺りも高架になってしまいましたが。

国鉄が分割民営化されると、速度とサービスが段違いに良くなり、結局、私もJRに乗り換えてしまいました。
その後、山陽電車に乗る機会は余り無かったのですが、震災後、直通特急というのが走り出すと、5000系が投入されて、阪神の線路にも山電が姿を見せるようになりました。
その時、阪神電車には無かったセミクロスシートや転換クロスシートを備えていたので、羨ましく思った覚えがあります。
今は中小私鉄とは言え、大手私鉄と遜色ない電車が走っていますね。
ただ、明石を超えると相変わらずの沿線風景ですが。
nice!(0) 

ダイヤモンドクロッシング [鉄道]

CPA_B777-300ER_KQX_0001.jpg

掃除機を掛けてトイレ掃除をして、と何時ものルーチンワーク。
そして、モニター周りはやる気が無くてそのまま。

終わってからはエビ中のライブ映像を流しつつ、今日はテレワーク。
明日からの会議資料を整理しておかないと後が大変です。
いや、参った参った。
取り敢ず、1つの仕事は片付けたが。

時に、昨日阪神電車の懐かしい話を書いたので、今日は阪急電車の懐かしい話を書いてみる。

今ではどうか分かりませんが、阪神地区では路線に応じて何となく格があって、阪急沿線より北が一番金持ち層が住んでいる地域、そこから下、国鉄(JR)までが中間上層、そこから下、阪神までは中間層と庶民層の混住地域、阪神から下は庶民層の住んでいる地域という感じで分かれていました。

私が学生時代、まだ高度経済成長の余韻が残っていて、「公害」と言う言葉が残っていました。
尼崎は「公害の尼崎」というネガティブなイメージがあったので、尼崎でも阪急沿線に住んでいる人達は、自分が住んでいる地域を指すのに「尼崎」と言う言葉を使わず、最寄り駅の「武庫之荘」を多用していました。
学生時代は武庫之荘の賃貸マンションに住んでいたのですが、貧乏でそこを出ざるを得ず、仕方なしに安アパートに住んでいましたが、それでも頑なに尼崎では無く「武庫之荘」でした。

阪急電車と言えば、昔から変わらず、一枚下降窓で車体色はマルーン、車内は木目調の壁にベージュの床、そしてゴールデングリーンのシートです。
かと言って、古さを感じさせる色味でも無く、余り気になりません。

私が大学生になって、電車通学をする様になってから10両編成が登場しました。
何しろ、8両編成の電車だと特に大阪方面行きが殺人的な混みようでしたから、10両編成になったのも頷けます。

子供時代は西宮に住んでいて、西宮北口が最寄り駅でした。
まだ当時は阪急電車は殺人的な混みようでは無く、今津線は4両編成での運行、神戸線の特急も6両編成で運行していましたっけ。

そして、今津線は今と違って今津方面、宝塚方面に相互直通していました。
今となっては、宝塚方面に行くのに今津線とはこれ如何に、なのですが、そもそもが直通していましたからね。

普通、こうした直通をするのは京王井の頭線と本線が交叉する明大前の様に片方が高架になって、もう片方は地上を走ると言う様な立体交差にするのが一般的ですが、阪急はそうでは無く、神戸線に直角に今津線の線路を通すダイヤモンドクロッシングと言う方式を採用していました。
よって、その双方のホームは地上で乗り換えが出来ました。
改札に向うのは上に上るのでは無く、下に下がる感じの地下通路で結ばれていました。

今のように人をやったらめったらに歩かせるのでは無い、浅い地下通路でしたね。
地下通路と言えば暗く湿った感じのイメージですが、この辺は阪急の拘りなのか、広くて明るく、そのまま改札の出口に続いているので、自然光が入ってくる感じの通路でした。
通路を歩いていて、たまたま上を電車が通ると、「ガタタン、ガタタン」という独特のジョイント音が響いていましたっけ。

残念ながら、ラッシュ対応で電車の編成長を増やす際に、ダイヤモンドクロッシングは邪魔になり、かと言って、神戸線を高架にするには費用が掛かりすぎ、今津線は高架にして直通させるには北と南で収支が余りにも違いすぎるので、分断することになりました。

結果、駅舎は高架上に作られ、ホームとの連絡は地上では無く、一度階段を上ってからになって、バリアフリー上どうなのよ、と言いたい代物になりましたが、小林一三翁が生きていたら何と言ったでしょうね。
それ以後、阪急電車の格が落ちたような気がするのは気のせいでしょうか。
心なしか、内装の木目調も色褪せたように思えます。

それからバブルに掛けて、阪急電車は結構迷走していましたね。
車体色も変えるとか言い始めたこともあったし。
今は原点回帰して元に戻りつつありますが。
良い意味で、古いものは捨てて欲しくないです。
nice!(0) 

赤胴車、青胴車 [鉄道]

CPA_B777-300ER_KQV_0002.jpg

今日は成田に行こうと張り切っていたのですが、早朝に起きたら現地は雨。
一気に行く気が失せ、結果、10時半までガッツリ寝てしまいました。
で、そんな日に限って、Garuda Indonesia Airwaysでは何時も飛来している機体が定期検査だからなのか、日替わりで変わった機体がやって来て、今日はレトロ塗装機が飛来、SASはA.330-300がシップチェンジでやって来たり、韓国線や中国線がほぼ最後の飛来だったりとまぁ盛り沢山だったようです。
起きたら曇りでしたが何とか天気は保っていたようでしたから、出掛ければ良かったです。
少なくとも屋内では無いし、吹き曝しの場所ですからウィルスも拡散されてしまうだろうし。

そんな訳で、今日はエビ中の期間限定映像をボケーッと見て、ばっしょーの瀬田さん回を見て、写真を整理するかとソフトを立ち上げたけど結果、何もせず。
折角の休みも何をしていることやら、です。

明日は雨だし、また太るぞ。

ところで、3月14日から各地の鉄道ではダイヤ改正が行われます。
SRに関しては毎回ダイヤ改悪だったのですが、今年に関してはその姿勢を改めたらしい。
まぁ休日昼間の12分サイクルは変えるつもりは無い様ですが、ちゃんとした12分サイクルに変えたので、歪な形でのダイヤにならず、覚えやすくなりました。
出来れば、バスと連携して電車の12分サイクルの間にバスの12分サイクルが入れば、赤羽駅まで6分間隔での運転が実現するのですが。

でもって、平日朝には鳩ヶ谷始発が1本増えましたし、夜でも悪名高き19時台の王子神谷行きが消滅して直通の本数が増えるようです。
帰りの電車もほぼ5分間隔になるので、割と使いやすくなったのでは無いでしょうか。
と言うか、やっと遅れが日常になっていたのを認識したか、と言う感じです。

で、ダイヤ改正と言えば、阪神電車では新車に置き換えられて、1960年代から作られ続けていた普通用の青胴車、別名「ジェットカー」5000系と優等列車用の赤胴車7600系が消滅します。
以前、深江に住んでいたときには通勤や通学でお世話になっておりました。

丁度、引越しした年くらいから赤胴車にモダンな1枚窓の8000系二次車が投入されて、阪神のイメージが変わったのですよね。
以前にも書いた様に、赤胴車と言えば夏の冷房が効きすぎると言うのが有って、海水浴で九死に一生を得た須磨から帰るときに、冷風に当たりすぎて風邪を引いた思い出があって、赤胴車の旧車にはトラウマがありました。

8000系二次車が投入されてからは、旧来の赤胴車が来たらゲンナリしたものでした。
それでも、東京に来てからそれ以下のクオリティの電車(例えば、京王の6000系とか東急の8000系とか東武の8000系とか)に乗る事が多くて、今更ながら関西の電車の質の高さに驚きましたっけ。
何しろ、京王の6000系とか東急の8000系は1枚窓なのに、窓が常にばたついて隙間風が入ってくる電車でしたからね。

それに比べ、阪神の赤胴車は旧型の2枚窓の電車であっても、窓のバタつきはそんなに感じませんでしたし、車内も静かでした。
ただ冷房が効きすぎるのだけが玉に瑕でしたが、東急8000系の冷房に扇風機よりは遙かに優しかったように思えます。

そして、青胴車。
今でこそ阪神電車の普通は4両編成で走るのが普通ですが、私の学生時代、21時を過ぎると普通は2両編成で運転されていました。
なので、新しめの車輌以外は、昼間に乗ると2両目と3両目の間に運転台が向かい合っていて、それの速度計とかを見るのが楽しみでした。

阪神電車の路線は駅間が短いので、赤胴車と同じくらいの車内設備で冷房があっても(そう言えば、関東の電車はかなり最近まで地下鉄を中心に非冷房車が多かったのですが、阪神はその頃には100%冷房を達成していましたね)頻繁にドアが開くため、そんなに寒く感じたことはありませんでした。

深夜放送時代の鉄腕!DASH!!で取り上げられましたが、あの最初にボロ負けした競争の舞台はうちの近くでしたっけ。
あの放送でもあった様に、駅間が短い上に速い速度で頻繁に運行される特急車を躱すために、異様な加速度の電車でしたから、乗っててもそんなにイライラすることがありませんでした。
関東の電車に乗っていると、目の前に電車が見えていて、手前で止まって、ゆっくり動いてみたいな感じで運転しますが、目の前に見えても、直ぐに視界から消えるくらい加速度が早いですし、待避設備も十分に備わっていたので、神戸から芦屋まで特急に乗っても、三ノ宮の手前以外では待たされることがありませんでした。
三ノ宮では3番線に快速急行が停車していれば、それの入線と出発で待たされましたけど。

今は高速神戸が始発駅ですが、当時は元町が普通の始発駅でした。
そう言えば、当時の阪神春日野道は地下に強引にホームを作ったためにホームの幅が狭く、2人並ぶと線路に転落しそうな程でしたっけ。

就職したとき、春日野道が最寄駅でしたから、先輩に「このホームを走れれば一人前」とけしかけられた思い出もありましたね。
今ではちゃんと2本のホームが作られているそうですが。
元町までの定期を買って、三ノ宮で降りて、ジュンク堂書店とか模型屋さんとかを巡って、元町から帰ると言う事をよくやってました。
来る電車に乗れば芦屋で降りるか、深江で降りるかすれば良かったので。

青胴車に乗ると、途中御影で抜かされるのですが、加速度が良かったこともあって、実は特急で芦屋まで出ようが、普通に乗って深江で降りようが、余り時間差は無かったです。
残業で夜が遅くなると、三ノ宮の店は大体20時前後で閉まってしまうので、春日野道から普通に乗って帰っていました。
ただ、慌ててホームに降りたときの山陽電車の阪神大石行きが来た時の失望感たるや…。

何時しか21時以降の2両編成は無くなり、旧型の赤胴車も伝法線に追いやられ、難波線が開通するとそこから更に武庫川線に転じ、辛うじて生き延びていたのですが、それも無くなります。
芦屋の高架から深江まで一気に走り抜ける電車も今は昔ですね。

てな訳で久々に鉄道話を語ってみました。
nice!(0) 

103系 [鉄道]

画像

今更ですが、昨日大阪環状線から103系が引退したそうです。
ジャンボジェットと同じく、電車の代名詞とも言える車輌でした。

とは言え、阪和線でも大和路線、播但線でも、また、同じ会社でも岡山や広島、山口では派生型の105系を含めまだ現役。
JR東日本からはとっとと引退してしまったのですが、その昔、国鉄、JRの「電車」と言えば、この103系でした。
JR東日本では、「走ルンです」こと209系がどっと入って来て、あっと言う間に淘汰されても、京葉線、武蔵野線では長いこと現役でした。

夏に乗ると頭上で扇風機が「ブーン」と回っていて、車輌によっては冷房の機器が能力不足で、冷房の効きは悪いし、揺れるし五月蠅いし、冬には隙間風がどんどん入ってきて寒いしで、正直、余り良い想い出は無かったりする車輌でした。

まぁこれを健気だと言って愛でる人もいる訳ですが。

JR東日本から淘汰されても、西日本ではまだ健在で、しかも武蔵野線から移籍した車輌もいたりして、何時になったら消滅するんかな、と思ってからはや10年以上。
途中、201系が入って来て一気に淘汰されるのか、と思いきや、未練がましくまだまだ矍鑠と働いていた訳ですが、遂に引導を渡されたようです。

鉄道車両においては、最近は扨措き、昔から西高東低と呼ばれていました。
阪急や近鉄の標準軌の車輌を筆頭に、阪神のジェットカー、京阪のテレビカーなど個性的な車輌、しかも、南海を除けば、普通でも蛍光灯にカバーが掛かっている高級感溢れる車輌が当たり前で、JRになってからのJR西日本でも、新快速や快速列車用には、221系の様なラグジュアリーな車輌が投入され、各駅停車にも207系の様な車輌が投入されていたのに、何故か環状線だけは相変わらず103系だったのが画竜点睛を欠くというか何と言うか。

それでも、50年以上、ただひたすらに乗客を安全に運んでいたのは誇れるものがあると思います。
余り事故で破壊されたとか言う話もありませんし、頑丈なところはワークホースと言う言葉がピッタリの車輌だったのでは無いかと思うのです。

まぁ、先ずはお疲れ様でした…ですが、まだまだ現役で活躍しているので、これから先もまだまだ会うことになるのでは無いでしょうか。



JR現役鉄道図鑑
マイナビ出版
レイルマンフォトオフィス

ユーザレビュー:

amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト by JR現役鉄道図鑑 の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル

北海道JR系現役鉄道車両図鑑〜北海道で在籍しているJR車両を全解説 (MG BOOKS)
エムジー・コーポレーション
加藤 勝

ユーザレビュー:

amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト by 北海道JR系現役鉄道車両図鑑〜北海道で在籍しているJR車両を全解説 (MG BOOKS) の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル

新幹線のすべて−現役全9形式パーフェクトガイド (万物図鑑シリーズ)
笠倉出版社

ユーザレビュー:

amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト by 新幹線のすべて−現役全9形式パーフェクトガイド (万物図鑑シリーズ) の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル

nice!(0) 

鉄修業 [鉄道]

画像

今日は休日出勤。
一通り終わったものの、1年半ほどパッチを適用していなかった鯖にパッチを適用しようとして、8時間経っても終わらず断念しました。
取り敢ず、来月から纏めて配信が開始されるので、それに賭けようかと思っています。
恐らく、来月の第4日曜はコンサートも何も無いはずなので…忘れて成田詣でに出掛ける可能性が無くは無い。

そう言えば、13日と14日にFinnairのA.350-900顔見世興行があるのですよね。
折角代休を得たので、金曜にでも撮影しに行こうかなぁ。

さて、今日は今月の鉄活動の釣果を貼り付けてみる。
と言っても、JR北海道の苫小牧駅での駅撮りと、大分駅での駅撮りだけ。
しかも、大分は親に気兼ねしたので、撮影は最小限で終わりました。
黄色い気動車などもう少し撮影したいのはあったのですが、大分は再訪したときにでも撮影しよう。
空港の撮影環境が頗る悪いので、恐らく次回来ても空港で日がな一日過ごすことは無さそうだし(皮肉)。

でもって、今回の旅行ではラクテンチに行くのも諦めました。
ラクテンチは、大分唯一の私鉄であるケーブルカーが走っていたのですが、流石に親を連れて行って帰っては…。

て事で、今月の鉄活動。

JR北海道のキハ143系100番代。
画像
以前、学園都市線で用いられていた客車改造気動車を置き換えるために投入されたもので、札幌時代もちょくちょく撮影していたのですが、学園都市線が電化されたので、苫小牧に都落ち。
但し、そのうち数両はJR東日本に譲渡され、蒸気機関車の客車として用いられると共に、それを回送する為の動力車として用いられているそうです。

更に奥には日高線専用のキハ40系が留置されていたのですが、日高線が災害により不通状態なので、お休みしていました。

同じくキハ150系100番代。
画像
キハ110系を寒冷地仕様とした型だそうで、100番代は非冷房。

キハ40系1700番代。
画像
寒冷地仕様の700番代を改造した近代化改修仕様。
北海道いさりび鉄道にも譲渡されています。
大体、北海道と言えばキハ40系700番代で、写真も一番多かったりします。

731系。
画像
実は苫小牧から千歳に行く普通列車の前方は新型の733系だったのですが、何故か733系に乗ってしまったという…orz。
これは何回も撮影しているのに何を血迷ったか…。

続いてJR九州。

415系100番代。
画像
JR東日本管内に住んでいる人間からすれば、すごい懐かしい車輌。
元々小倉で使われていたのに、今年3月に新車投入で押し出され、大分区に転入したもの。

883系0番代(3次車)。
画像
以前は前頭部だけがメタリックブルーで、先頭部は様々な色で塗り分けられていたのですが、此の時には夜しか撮影出来ず、解像度の低いカメラと相俟って、中々綺麗な写真が撮影出来ていませんでした。
今回やっと撮影出来たのですが、リニューアルされて全面濃いメタリックブルーとなってしまったので、その違いが分らなくなっています。
因みに、何次車かは前頭部の鼻の部分で見分けるらしいですが、よく見ないと判らないですね。

そんな訳で、今月も余り鉄活動が出来ていません。
nice!(0)