バッシング [日記]
今日は流石に疲れたので休み。
何処に出る訳でも無く、ひたすら寝ていました。
月に1度はこんな状態に陥ります。
まぁ、この前から寝落ちがずっと続いていましたから相当疲労が溜っていたのだとは思いますが、今迄は気力でカバーしてた訳で、流石に少し涼しくなって疲れが出て来たみたいです。
明日からは頑張って会社に行こうと思います。
さて、今日は対馬丸撃沈から80年目だそうです。
日本の商船は第2次世界大戦中に殆どが喪われました。
第1次世界大戦で、あれだけ島国の英国が潜水艦戦で苦労していたのに、全くそれを教訓にせず、打撃戦力のみの充実に明け暮れ、遂には通商破壊にやられて物資が殆ど日本に入らず、折角の大型艦も役に立たなかったなんて本末転倒なことがあって敗北にまっしぐらだった訳です。
私の父方の曾祖父は医者だったのですが、日本で開業医になる道を歩まず、満洲に出向いて満鉄の嘱託医になった後、日本郵船に転職しました。
そして、明治男らしく冒険心に溢れ、船医として外航船に乗り込んで、当時の日本人にしては珍しく、欧州や米国など各地に足跡を印しています。
第1次世界大戦後直ぐのハンブルグでは、当時猖獗を極めていたコレラだかチフスだかの対策のための予防接種をボランティアでやってたりしてました。
何が曾祖父を駆り立てたかは聞いてませんが、そんな義侠心に富んだ人だったようです。
日中戦争が始まって、世の中がきな臭くなってくると好い加減に停年近くになっていた曾祖父は、欧州航路や米国航路への乗船は行わず、日本郵船の子会社の近海郵船に出向し、上海など中国航路の船に乗り込むようになります。
特によく乗っていたのが長崎丸と上海丸と言う船で、文字通り、長崎と上海を結ぶ航路で運航していた船です。
太平洋戦争が始まっても、当時の中国航路には敵影は無く、そのまま運航を続けていました。
ただ、佐世保や長崎と言えば要衝であるため、防備のために機雷原が設けられていきます。
その情報をちゃんと民間企業に渡していたなら良かったのですが、海軍はそれを疎かにしました。
結果、1942年初頭に長崎丸が機雷原に迷い込み触雷。
長崎丸はあっと言う間に沈み、乗員乗客に被害が出ました。
私の曾祖父も沈む船に巻き込まれ、意識を失います。
そして、大勢の仏様と一緒に救助船のデッキに上げられ、並べられました。
その救助船に偶々同僚の船医が乗っていました。
「ありゃ、○○さんも仏さんになったのか」とびっくりして近づき、鼻の穴近くに手を当ててみると微かに息をしている。
「この人まだ生きてるぞ!」と言う事で、慌てて病院に担ぎ込み、蘇生措置を施したら息を吹き返したそうで、家族に伴われて無事に家まで帰ってきました。
ところで、長崎丸の船長は触雷した後、乗員乗客を極力救助し、最後に自ら救助船に乗り込んで生還しました。
元々は海軍が機雷原の海図を郵船に渡していなかったのが原因で船が喪われたのに、その責任は一切問わず、逆に海軍は「国家の財産たる大型商船を丸々喪わせた」と言うキャンペーンを張ります。
で、毎度のことながら国民が煽られ、当時は日本軍が破竹の勢いだった頃もあり、「生き延びた船長は自害しろ」と言う論調が世を覆います。
結局、この船長は責任を取って自刃してしまいました。
ベテランの船長を育てるのにどれだけの年月が掛かるか、船は造り直しが効きますが、ベテランの船長は替えが効きません。
いずれにしても、その後の負け戦だったらどこかでこの船長は沈没船と共に死んだかも知れませんが。
その事件が切っ掛けかは知りませんが、結局曾祖父は近海郵船を退職し、西宮に戻って開業医として隠退生活を送りました。
もし、このまま近海郵船に乗り続けていれば、恐らく本当に海の藻屑になったでしょうし。
昨今の大運動会の出場選手に対するバッシングだとか、芸能人などに対するちょっとしたことでのバッシングを見るにつれ、当時と国民は然程変わってないのだなぁと思います。
結局、そんな人達は、人が(物理的或いは社会的に)死ぬのが楽しいんじゃないでしょうかねぇ。
そう言う意味では、快楽殺人犯と何ら変わらないんじゃ無いか、そんな風に思います。