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機銃掃射と手榴弾 [日記]

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今日は新オフィス稼働開始日だったので、新聞休刊日だったこともあり、早めに会社へ。
大抵、こう言う新オフィス初日にはトラブルが付き物ですが、全く静かなもので問い合わせの電話などは一切無しでした。
やっぱり、幹事会社変えたからなのか、日程に余裕もあったからなのか…。
今後の工事もこの会社にやって貰いたいなぁと凄く思った1日でした。

さて、敗戦の日に母親の戦争体験を書きましたが、父親も書かないとバランスが悪いなぁと。
父親の方は西宮の中部に住んでいましたが、西宮の海岸沿いは阪神工業地帯で、西宮には重要な工場である川西航空機が鎮座していました。
その頃、甲子園も迷彩を施されて、軍需工場になってたりしたわけですが。

太平洋戦争も後半になってくると、幾度となく工業地帯に向けてB-29が爆撃に訪れたりするわけです。
当初は護衛戦闘機が付いてなかったのですが、硫黄島陥落後は護衛戦闘機が付いてきましたし、比島で艦隊を喪ってからは制海権がなくなり、日本の沿岸部にまで連合軍の航空母艦が接近して、爆撃を繰返したりしていました。

こうした戦闘機は、相手が攻撃してこなければ暇なわけで、行き掛けの駄賃とばかりに、様々な場所を機銃掃射していき、犠牲者も多数出ました。
うちの親父も、空襲警報が出て学校から家に帰る途中でこうした戦闘機に出くわし、機銃掃射を受けます。

必死になって土道を駆けていて、真っ直ぐその侭進んでいたら、完全に機銃の射線と合わさって、撃たれて死んでいたと言います。
丁度、途中の畑に避難していたおじさんがいて、「坊主こっちだ!」と呼んでくれたため、道から畑に飛び込んで丈の高い作物の間に紛れた御陰で、撃たれずに済みました。
それこそ、グラマンの操縦士の顔まで見えたと話していましたっけ。

父親にしろ、母親にしろ、ちゃんと生き延びてくれたから私がいるわけで、もし、二人のどちらかが欠けてたら、私は生まれなかった訳です。
そう言う意味では生き延びてくれて感謝です。

そんな戦争が終わって直ぐの頃、武庫川の河川敷に駐屯していた海軍部隊が解散というか逃亡して、そこに置かれていた物資が野放しになってました。
勿論、食糧や衣料品など生活物資はいち早く消えていたようですが、恐ろしいことに武器弾薬はそのまま放置されていました。

父達は、そんな遺棄場所に友達複数人と探検に行って、手榴弾とか銃弾とか銃剣などを持って帰っていたらしい。
ある時、友達の1人が、そんな遺棄兵器である手榴弾を、遊びのつもりで当時うちの隣にあった小高い丘で投げつけたそうです。
手榴弾が落ちたところが土くれの場所だったら、まだ事故は起きなかったのですが、偶々落っこちたところが岩場でした。

手榴弾が爆発すると、その岩が崩れて、爆風で飛んだ石の破片が父達を襲います。
父は殆ど怪我を負わずに助かったのですが、父の前にいて、手榴弾を投げた友達は、岩石の破片を腹に受けて、腸が飛び出して死んだそうです。

当然、親達からはこっぴどく叱られ、拾ってきた武器弾薬は、没収されて農業用水路の奥深くに埋められました。
なので、多分、そこを掘れば手榴弾や鉄砲の弾薬が出て来るはずだと言ってましたっけ。

戦後の混乱期、こうした事故が日本全国至る所で起きていたと思います。
それで死んだ人、怪我を負った人は、戦死扱いされるわけでもなく、また国から見舞金が出る訳でも無く、一種蔑ろにされている訳です。
正直、軍が処理しなかったもののツケを払った形です。
空襲の被害者共々、本来は国がちゃんと謝罪して補償をするのが筋だと思うのですがね。

これもザイム真理教の弊害じゃないかなぁ。
空襲の補償や戦後の混乱期の軍関係の事故の補償となったら国民の大多数が被害者になるから、お金が幾ら有っても足りないと言う理屈でしょうかねぇ。
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