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遠すぎた家路 [読書]

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今日は何となく予感がして、何時もより少しだけ早めに帰宅。
少ししたら土砂降りの雨。
危うくびしょ濡れになって帰る事になるところでした…と言っても、傘はありましたが。

さて、今日はやっとこ書評。

『遠すぎた家路 戦後ヨーロッパの難民たち』(Ben Shephard著/忠平美幸訳:河出書房新社刊)
ほぼ10年前の本で、作者は英国人でプロデューサーとしてBBCのドキュメンタリー番組を多く手がけた人です。

第2次世界大戦末期、ドイツは徐々に敗色が濃くなってきたものの、戦争を遂行するには兵器を生産し、国民に食糧を配給するために労働力を必要としていました。
とは言え、健康なドイツ人男性はは前線に兵士として駆り出され、女性くらいしか国内にまともな労働力は残っていません。
また、兵士ですらドイツ人が動員出来なくなってきました。

このため兵士として、旧バルト三国や北欧、西欧の占領地の人達を動員し、労働力としてはフランス、ベネルクス三国、北欧諸国と言った西側の占領地からは元より、東欧諸国やウクライナ人を募って工場や農場に送り込みました。
また、緒戦では絶滅収容所に送っていたユダヤ人ですら、末期には工場に動員していました。
勿論、交替可能な労働力として最低限の生活しかさせませんでしたが。

ドイツが敗北すると、ドイツには様々な人々が入り乱れるようになります。
動員された西欧諸国の人々や、東欧諸国の人々、ユダヤ人、ウクライナ人、バルト三国の人々、東欧やソ連から少数民族として迫害され追放されたドイツ人、ドイツに協力して戦ったクロアチアやセルビアの軍人たち、それと亡命ポーランド政府に忠誠を誓い、連合国側に立って闘ったポーランド人など。

占領政策を考えていなかった連合国、特に米英はその後始末に翻弄されます。
長々と書いてきましたが、この本はドイツの敗北でドイツに取り残された、或いはドイツに辿り着いた数百万の人々を米英がどの様に「処理」したかと言うのを記録した本になります。

この本を読むと、難民はユダヤ人だけではない事が判ります。
ユダヤ人についても、「ナチスドイツに迫害された可哀想な人々」と言う側面もありつつ、米国も英国の外交当局は、パレスチナに彼等を極力送り込みたくないと言う思惑がある事が判ります。
しかも、当のユダヤ人達も当初はパレスチナに行きたがる人は少数で、米国に渡りたいと言う人達が大多数でした。

ベン=グリオンなどの活動家がユダヤ人のキャンプに入って煽動し、難民という厄介払いをしたい軍政当局はそれを暗黙の了解で、パレスチナへの密入国を手助けする側に立ちます。
しかし、活動家に煽動されてパレスチナに渡った20万人の難民のうち、第1次中東戦争に兵士として従軍した難民キャンプのユダヤ人達は、殆ど生き残ることが出来ませんでしたし、パレスチナに移住しても住居も何も無い状態で放り出された人達も多く居ました。

ポーランド難民も頭の痛い問題でした。
ポーランドは共産化してドイツから戻った人々は共産化に馴染めず、またドイツに舞い戻ります。
また、イタリアで戦闘していた亡命ポーランド陸軍の師団は本国に復員することを拒否して、場合に依っては武力に訴えると言う事で、これまた連合国の頭痛の種になりました。

ウクライナ人の大多数は本人達が拒否したにも関わらず、ソ連に引き渡されましたが、ソ連が併合したオーデル・ナイセ線から東の旧ポーランド領に住んでいた人達はポーランド人としての扱いを受けました。
このため、本国に帰還したくないウクライナ人達は西ウクライナに住んでいたポーランド人になりすまして、上の難民に合流します。

クロアチア人やセルビア人兵士達は、何の配慮も無く、チトーのユーゴスラヴィアに引き渡されましたが、これらの兵士の大多数は迫害され、最悪の場合殺されたりしました。

比較的連合国の受けが良かったのがバルト三国人です。
特に英国では、ナチスドイツ並の人種差別を剥き出しにして、金髪長身のバルト三国人は受容れるが、それ以外の人々は受容れないとしていました。
しかも、若い女性のみの受容れで、彼女達を受容れて何をさせたかと言えば、病院の看護師です。

米国は英国以上に難民受入は容認出来ないとして、殆ど受入をしませんでした。
その後、要件を緩和して難民の受入を行いますが、その殆どが農業労働者としての受入で、頭脳労働者でも一律に農村に送り込まれました。
また、冷戦勃発後には民族ドイツ人の受容れも始め、其の中に紛れ込んだ多くの戦争犯罪人が米国に渡ったと言います。

他の連合国や中立国の難民受容れも似たり寄ったりで、高等教育を受けても炭坑夫とか鉱山での採掘、農業労働者など肉体労働者としての要求しかありませんでした。

1951年までの6年で、100万人に登る難民が故国を離れ、海外に再定住することになります。
以後、何等この問題は顧みられないまま、戦争の度に彼方此方で難民問題が繰返されることになった訳です。

因みに、ドイツについても難民問題は影を落としています。
元々ドイツに連れてこられて強制労働をさせられていたわけですから、賠償問題は常にドイツ政府や強制労働をした会社に突きつけられていたわけです。

ドイツ政府は、この問題に就いては外交上の利益がある時だけ賠償金を支払いました。
一方で、裁判所は強制労働を「ナチスの典型的な悪事」として認めていません。
ドイツ政府は個人に対する賠償金支払を認めておらず、「自発的」支払いを組織に対して行い、その組織が賠償金を分配すると言うやり方を取っています。

ただこの流れは、米国で1990年代にダイムラーベンツなどが集団訴訟の被告となり、米国市場での営業を脅かし始めたのが転機となり、1997年にアウシュビッツで働いていた高齢女性に15,000マルクの支払を司法が認めることになりました。

そうなると、当時10万の元奴隷が生きていた為、総額が数百億に達する可能性が取り沙汰されます。
これに対してフォルクスワーゲンなどの大手企業は、これまで保存記録のアクセスを拒否し、都合の悪い事実を抹消していたのを改め、著名な歴史学者を雇って記録を調査することにしました。
徹底的な歴史学者の調査で、自分達の恥ずべき行為を曝け出されて一時的な評判の低下があっても、世間は直ぐに忘れ去り、これで禊ぎがすんだと言うことになります。
要は奴隷労働者への賠償よりも歴史学者への報酬の方がはるかに安いと踏んだわけです。

また、2000年にドイツ政府は政府と産業界の共同出資で賠償を支払う基金を設立します。
とは言え、賠償を受けるためには志願してドイツに来たわけでは無いと言う証明が必要で、元奴隷労働者達はそんな証明を持っていなかったり、当局に取り上げられたりして紛失しているケースが多く、殆どが門前払いとなりました。

この基金は、2007年までの7年で43.7億ユーロの支払を170万人に対して支払い、終了しましたが、個々の人間に支払われた額は奴隷労働に最高で7,669ユーロ、工場の強制労働には最高で2,556ユーロ、農業の強制労働では最高で1,022ユーロという極めて少額の賠償でした。

戦時賠償についてドイツを手本にすべきという人もいますが、こんな欺瞞的なやり方で賠償を切り抜けている訳で、決して褒められたものでは無いのは心に留めた方が良いと思います。

総じて今の難民問題の源流を見る事が出来ますし、国家と言うのがこうした奔流とも呼ぶべき難民問題に対して何の能力も無いし、国際機関も余り力が無いと言うのが良く判る本だったと思います。

遠すぎた家路 戦後ヨーロッパの難民たち

遠すぎた家路 戦後ヨーロッパの難民たち

  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2015/03/20
  • メディア: 単行本



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