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Celebesの亡霊 [日記]

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今日は在宅勤務。
やっと長い1週間が終わった。
流石に休日出勤する気にはなれません。
それにしても、折角水曜にリハビリに出掛けたのに、明日も午前中は雨なんですよねぇ。
しかも朝のうちは土砂降りだそうで。
一体、何時になったら成田詣でにいけるのかしら。
まぁ、今日の埼玉は51人の感染者だそうですが。

さて、今日も今日とてオランダの軍艦話。

第1次世界大戦中に3隻の巡洋艦を起工したオランダ海軍ですが、色々あって完成したのは2隻に留まりました。
これらの巡洋艦は蘭印艦隊に配備されたわけですが、2隻の巡洋艦では1隻が改装や修理をするために本国に回航してしまえば、残りは1隻しかいません。
日々増大する日本の脅威に対応するには、1隻だけでは心許ない状態で、どうしても3隻目の巡洋艦が必要となります。

1930年頃にこうした考えが出て来たのですが、丁度世の中は大恐慌の時代です。
打出の小槌が一杯ある訳ではありません。
財政的な制限から、艦の基本設計はSumatra級をベースにし、トン数は5,250トンを超えないことにしました。
その結果、主砲にしわ寄せが来て、元々は15cm連装砲を4基、もしくは20.3cm連装砲を3基装備したかったのですが、結局15cm連装砲を前に1基、後に背負い式で2基の合計3基、更に前の2番砲塔は単装砲で我慢せざるを得ませんでした。

また、速度についてもトン数制限の御陰で大馬力機関が搭載出来ず、32ktsに留まります。
更に装甲についても、古いSumatra級と同様に、最大で50mm、殆どが30mmと言うブリキ缶並の装甲でしか有りません。

煙突は1本で、煙突横にデリッククレーンがあり、煙突後部にカタパルトを1基有していて水上機1機を搭載出来ます。
上構は重心を維持する為に、軽量化され、一部にはアルミ溶接も試みられています。

ブリキ缶並の装甲ですが、その装甲の範囲は広く、A砲塔から操舵室まで30mmの装甲が巻かれ、艦橋は開放式では無く、装甲に巻かれた塔型のものです。

連装砲のMk.9砲塔は70トン、単装のMk.10砲塔は星弾も発射でき、25トンとなっていました。
そして砲塔に装備された150mm砲は速射性能を持っていて、手数が撃てるものとなっています。
対空砲は40mm連装砲で5基が上部構造物の脆い部分を補う様に配置されています。
この他、12.7mm機関銃が連装機銃として4基、補助的に配置されていました。
射撃指揮装置はとても先進的な代物で、遠隔操作されていました。
射撃時の安定性維持や測距も自動制御です。

水上機のカタパルトはドイツのハインケル製、水上機としては国産のFokker C11Wが搭載され、1機はカタパルト上に、もう1機がカタパルトと後部構造物の間に搭載されていました。

機関部のボイラーは2基ずつ3箇所に分散されて配置され、損害の極限を図っています。
タービンは公称66,000shpを発揮しますが、短時間では76,000shpを発揮でき、速力も32ktsから33.5ktsを発揮することが出来ました。
このタービンは速度を出すだけで無く経済的な代物でもあり、巡航時には17ktsまで、更に経済速力は12ktsで、750tの重油を使って6,800海里も航海できます。
因みに、最大の燃料搭載量1,300tの重油ではその航続距離は11,000海里に達します。

財政的に制限が為された割には使い勝手の良い艦だったのですが、如何せん大恐慌の影響が大きく、また、蘭印艦隊としてはそれよりも大型で強武装、高性能の巡洋戦艦整備計画を開始したため、Sumatra級の全艦を更改するに至らず、巡洋艦はこの後、嚮導駆逐艦に毛の生えたようなTromp級の建造に移ります。

De Ruyterと名付けられた新型巡洋艦は1935年3月11日に就役し、蘭印艦隊の旗艦として蘭印に配備されました。
太平洋戦争では、英米蘭豪連合艦隊(ABDA戦隊)旗艦となりますが、1942年2月28日にジャワ海での戦闘で、重巡洋艦羽黒の主砲が命中して損傷した上、酸素魚雷が命中して、2時間後に海中に没しました。
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