SSブログ

戦時計画 [日記]

CAL_B737-800_18667_0002.jpg

今朝も思い切り体調が悪かったのですが、今日は主催の会議があるので、這うようにして会社へ。
明日は、銀行に行ってこの前壊れたネットバンキングのワンタイムパスワードを交換する予定(だけど、店舗は予約優先とあるのでどうなることやら)とCPAPの医者に行くので半ドンです。
銀行が無ければ15時上がりに出来たのですが。

さて、第1次世界大戦真っ最中の1915年7月15日、オランダ海軍は海軍増強の為、2隻の巡洋艦を建造することを決定します。
一応、この2隻はオランダで設計されますが、鋼材などの主要資源は国内では調達できず、鉄鉱石はノルウェーのノルヴィクから搬出されて、スウェーデンで加工され、ロッテルダムに到着したものが建造が進められます。
なお、スウェーデン鋼はロッテルダムで消費されるだけで無く、そのままドイツに流れたりもしています。
その見返りとして、ドイツからはクルップの熟練労働者や技術者が派遣されて、巡洋艦の建造に携わりました。

こうして設計された巡洋艦は、英国やドイツの軽巡洋艦よりも大型で強武装のものになります。
しかし、第1次世界大戦に英国により行われた経済封鎖で国内経済は疲弊し、クルップの労働者や技術者も、自国の造船が優先となった事から急速に引揚げられ、その結果、次第に建造ペースは遅滞し、1916年5月31日に2番艦のJava、7月15日に1番艦のSumatraが起工したのですが、第1次世界大戦からかなり経った1920年12月19日にSumatra、1921年8月9日にJavaが進水することになります。
もう1隻、3番艦のCelebesが1917年度計画で建造されることになっていましたが、これは7月に起工したものの、工程が大して進まないうちに工事中止となり、1919年に正式にキャンセルされました。

工期は更に伸び、結局Javaの完成は1925年5月1日、Sumatraは1926年5月26日になります。
何だかんだで、起工から完成まで10年も掛かったわけです。

この頃、建艦競争に歯止めを掛けるべく、ワシントンで海軍軍縮条約が締結されたのですが、軽巡洋艦が6インチ砲装備で5,000トン程度のものとされたのに対し、Sumatra級は7,000トン級と一回り大きく、重巡洋艦が8インチ砲を装備した1万トン級であるのに、Sumatra級はトン数がそれに満たず、また備砲も15cm砲10門なのでこれも重巡洋艦の枠内に入らない、謂わば条約外の艦となりました。

完成後は、第1次世界大戦により、飛行機が発達した結果、Sumatra級も水上機を搭載する事になります。
カタパルトは備えませんでしたが、第1煙突の後にクレーンなどを装備し、ここにFairly IIIDを2機搭載しました。

1934年から35年にかけて、大改装を受け、後檣が交換されてそこにデリッククレーンを前方に向けて装備すると共に、前檣には探照灯台を設けるなど、より機能的になりました。
更に75mm高角砲4門の他に対空機銃として4挺のマシンガンが装備されているだけでしたが、機銃は6~8門の40mm単装機関砲へと更新され、加えて12.7mm機関銃が6挺装備することになりました。
これらの改装で乗員は45名増えて525名になっています。

第2次世界大戦では2隻とも本国で改装中でしたが、1940年5月のドイツ軍侵攻で脱出し、スラバヤに回航されます。
しかし、1941年12月までは活発では無く、Javaは1942年2月27日、ジャワ海での戦闘中に日本海軍の重巡洋艦那智の雷撃を受けて撃沈されました。
僚艦を失ったSumatraは、根拠地をも占領され、1942年9月に英国のポーツマス軍港に身を寄せます。
ただ、無理な稼働が祟ったからか老朽化が甚だしく、武装を撤去して1944年6月9日、ノルマンディー上陸作戦の際に、マルベリーの防波堤として沈められることになります。
nice!(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0