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パンデミック [日記]

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来週会議で報告しなければならない事項があって、彼方此方調整に走り回っていました。
一方で日曜の工事立会いは、日曜に会社に出て来る人がいたので、その人にお願いして難を逃れ、日曜日はフリーになりました。
なので、明日が雨でも、明後日があります。

で、今日は早めに蒸けてお馴染みCPAPへ。
前回は平均AHIが18.3まで一気に下がって、このまま下がり続けるかと思いきや、一進一退でまた今月は20.6に上昇。
ラージリークが減った分、数値が上昇したっぽいです。

詳細を見てみると、無呼吸を検知すると圧が上がって気道を確保し、呼吸を促す仕組みなのですが、圧が上がっても気道が確保出来ず、無呼吸の侭という状態が続いているみたいです。
これでは余りCPAPとして機能を果たしていないので、毎度おなじみ数値いじりで、入眠時の圧を高める事になりました。

最初の入りはそんなに圧が高くありませんが、20分経過した後で一気に圧を上昇する形に変更です。
これでどれだけ効果があるのか、頗る疑問ですが。

先月今月と疲れが溜っていたり、悪天候だったりで、休みに殆ど動けておらず、運動不足状態で、体重が中々減っていないのも効いているのかも知れません。
ただ幸いなのが、太り過ぎ表示には未だギリギリでなっていないこと。
何とか体重がギリギリで踏み止まってくれています。
まぁ、食事の御陰と思いたいですが。

時に新型肺炎の話で思い出したことがあります。
私の曾祖父の話です。

私の曾祖父は、苦学して医学校を卒業して医者になった人です。
医者になってからは、まず満州鉄道に就職し、それから縁あって日本郵船に転職しました。
転職してからは、客船の船医として、米国やアジア、果ては欧州まで行っています。
まぁ、当時としては希有なパターンですね。

1917年、インフルエンザが世界的に猛威を奮いました。
折柄、第1次世界大戦で連合国、枢軸国問わず、生活物資が逼迫したために栄養不良となり、抵抗力が落ちていた銃後の住民、また前線で不衛生な状態で戦闘していた兵士達が次々に罹患し、罹患した兵士達が帰還したことで、更に欧州から米国などにも飛火、最終的に何十万人からの死者が出ています。
勿論、日本も例外ではありません。

第1次世界大戦が終わってからも、このインフルエンザは猖獗を極めていました。
特に戦後、敗戦国となったドイツでは、長期間の戦闘に加えて生活物資が戦後も不足していた上に、戦場からの兵士の復員、植民地や新たに独立した国々から追放されたドイツ系住民が続々と本土に帰還したことで生活は苦しくなり、衛生状態も悪い状態が続いていましたから特に酷かったらしい。

そんな中、ハンブルク港に入港した日本郵船の船に我が曾祖父が乗っていました。
ハンブルクでもインフルエンザは大流行していたのですが、ある時、市のお偉方から曾祖父に支援依頼が来たそうです。
それは「子供達だけでも、あなた方の船にあるインフルエンザワクチンを接種して欲しい」と言うものでした。

今の世の中だと、こんな要請は会社的にも一蹴することになるのかも知れません。
しかし、日本郵船では商売抜きで、こうした要請に応えることを決めました。
かくして、曾祖父は船に搭載していたワクチンを一所懸命に接種したそうです。

当時のドイツはまだ第1次世界大戦の余韻が続いていて、不安定な状態。
また黄禍論なんてのが大手を振っていた時代ですから、東洋の得体の知れない医者が白人の子供に得体の知れない注射を受けるのはどうだったんでしょうか。
色々と葛藤や軋轢があったかも知れません。

後日談については、ハンブルク市から表彰されたとか、感謝されたとか言う話は全く聞いていないのですが、とにかく、こんなことをしたよ、と言う土産話がさり気なく、うちの家に伝わっているだけです。

うちの曾祖父は、発症から何年も経って治療法が割と確立していた病気でしたから、対処は割と簡単だったのかも知れませんが、今回の様なまだ治療法も分からない状態で手探りでしょうし、色々と不備な点もあったかも知れません。
ただ、医療スタッフ達はほぼ一所懸命に活動したのでしょうから、端から見てあーだこーだと言うのは一寸違和感を感じます。

ただ、情報隠しだけは頂けませんけどね。
情報を開示することでパニックとかを抑えることが出来ると思うのですが。
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