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四半世紀前の今日 [ひとりごと]

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今日は1月17日です。
就職して2度目の東京転勤を命じられて1年か2年経った頃、正月を実家で過ごして、仕事に戻ってさぁこれからと言う時、早朝にワンルームの独身寮の電話が鳴りました。
「大地震や!!!」と言う親からの電話でした。

その時は全然目が覚めていなくて、テレビを付けても特に速報は出ていません。
「大阪で震度4」と言うテロップが出ていた程度で、よもや神戸であんなことになっていようとは思っていません。

夜が明けるにつれて情報がどんどん集まってきてどえらいことになっていることが判り、会社を年休で休ませて貰う事に。

どうせ現地は混乱していて物資が届いてないだろうし、御飯くらいは自前で持っていかないといけないだろうと思い、先ずは御飯を炊いて、スーパーに買出し。
缶詰やレトルト、保存食で直ぐに食べられるものを見繕って買い込み、銀行に寄ってお金を引き出し、
それから伯母の住んでいる家に行きましたが、生憎電話番号が分からなくて、交番に行って電話を掛けて貰いました。
今では難しいのかも知れませんが、当時は交番も住人の調査か何かをしていて個人の連絡先の登録もしていたので、電話を掛けられるようになっていましたっけ。

やっと伯母と連絡が付いて家に駆付けますが、伯母もテレビの生中継を見ていて親の安否を気遣ってくれていました。
無事なことを知らせて、付け届けの多い家だったので、何か足しになるものがないか聞いて、幾らかの缶詰とかをもらい、お見舞いを貰って、一旦家へ帰ります。
荷物は出来るだけ纏めて簡潔にして、いざ東京駅まで。

幸い、名古屋までは新幹線が通っていたので、先ずは名古屋まで行き、その間に近鉄が復旧したので近鉄特急に乗って鶴橋まで。
鶴橋から環状線で大阪まで行ったのですが、そこから先、鉄道は通っていない。
現在だとスマホで検索すれば良いのですが、当時はそんな洒落たものは無く、途方に暮れました。

ふと見ると、阪急バスというのが大阪駅の案内看板に書かれていました。
これだ!と思って、大阪駅の北側に行くと、阪急伊丹駅行きのバスが丁度待っていました。
今は系統が分断されて園田乗り換えになっている様ですが。
この頃、既に阪急伊丹駅は崩れていたので、手前までと言う話でした。

以前は尼崎に住んでいたので、場合によっては知人宅に駆け込もうと思って先ず西へと向います。
神崎川を越えて尼崎に入ると、どんどん暗くなっていきます。
取り敢ず終点の臨時停留所で降りましたが、ここから先交通手段がありません。
さぁどうしようかと思ったら、丁度タクシーが通りかかりました。

思わず手を上げて止めましたが、そのタクシーは堺市のタクシーで戻るところだったそうです。
悪い事をしました。

伊丹から南に先ず向って国道2号まで行き、国道2号をひたすら西へと走ります。
武庫川大橋までは何とか渡れたのですが、そこから瓦礫の山で先は行けません。
一旦、迂回して北に向い、門戸厄神辺りで阪急今津線を越えますが、まだ南には行けず。
仕方ないので一度苦楽園方面に抜けて、苦楽園から夙川に回り、国道171号線経由でやっと国道2号線に行くことが出来ました。

国道2号線を、瓦礫に引っかからないように注意しながらゆっくり進みました。
運転手のおじさんとも大分親しくなっていたのですが、全く朝から御飯を食べていないと言う話だったので、適当に手持ちのパンを分け、おじさんも手持ちのカロリーメイトを頬張ってやっと人心地ついたようです。

そうこうしているうちにやっと神戸に入ることが出来ました。
当時の実家は芦屋の市境を越えた直ぐの所県営住宅でしたが、流石にそこまで入ることは出来ず、広いところでタクシーを止め、運転手のおじさんに無事に帰れるように、そしておじさんも家が無事であるようにとエールを交換して…ちなみに料金は結構グルグルと走り回ったのですが、流石に非常時だからと言うので、途中でメータを止めてしまい、1万円で走ってもらいました。

あの運転手のおじさんは無事に堺まで帰り着いたのでしょうか。
実はちょっと気になっています。
ま、大きな余震とかは無かったから無事だと思いますが。

そして、瓦礫の山を迂回しつつ、集会所に人の気配がしたので行ってみると、親を含め、うちの住宅の人が沢山避難していました。
昼過ぎに出て、実家に着いたら21時前くらいだったでしょうか。

どうも市外からこの集会所に来た部外者第1号だったみたいで、色々と情報を聞かれました。
今だとスマホで直ぐに分かるでしょうが、当時はそんなものはありませんからね。
精々がラジオの情報くらいで、何が起きているのか分からなかったと後から聞きました。

また当然のことながら、「関西は地震が起きない」と言う神話めいたものがありましたので、誰も備えをしていません。
御飯もなかったので、私がタッパーに入れて持っていった豆御飯とパンは、避難していた子供達にとって初めての食事だったようで、かなり感謝されましたっけ。

そのまま集会所に泊り、翌朝、集会所から家に戻ったのですが、家の中に入った途端、まぁ家の中がぐっちゃぐちゃになっているのが目に入りました。
そして、私の部屋の普段寝ているベッドには、頭の辺りに本棚がど~んと倒れていて、もし正月に震災が起きていたら確実に命を落としていたことでしょう。
まぁ、悪運だけは強いようです。

それから1週間、家の中を片付けていたのですが、電気が復旧した夜、ふと窓の外を見ると近くのマンションから黒い煙が上がっていました。
慌てて、119番しようとしましたが全然掛からずでしたね。
幸い、直ぐに消し止められたようですが。

そんなことをしながら、1週間後に流石に会社に戻らないのは拙いし、一応は東灘小学校に救援物資が届くようになっていたので、東京に引揚げることにしました。
東京に戻る道すがら、神崎川を越えると、ブルーシートが点在するにせよ、見事に普段通りの生活をしていたのを見て絶句したのを覚えています。

今日はこんなことを思いながら仕事をしていた所為か、まぁポカミスが多くて嫌になりました。
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